Primal Heart
僕が閉じこもれる家は、もうない。
永遠に広がる虚無の闇の中を、僕はさまよい歩かなくてはならない。
それは、恐くて、辛くて、とても悲しい闇。
そして、もう、僕の前に、輝きはない。
この暗黒の世界を、僕はひとりぼっちで生き続けなくてはならないんだ……。
初夏の、晴れた水曜の少し暑い日の朝。
僕は、学生ズボンに白いワイシャツ、右手に革の学生鞄という姿で、市立大野埼第一中学校の校門前に立っている。
グラウンドの方からは、朝練をしている運動部の部員たちのかけ声が聞こえてきて、そして、僕と同年代の学生たちが、友達同士、何か色々と喋りながら僕の横を通過し、校門を通って学校の中に入ってゆく。
これから始まる一日を前に、彼らの表情は希望に満ちあふれている。始業から放課後までずっと楽しい気分でいられる事を、すでに約束されているかのようだった。
しかし、僕の現在の心境は、そんな彼らとは正反対だ。彼らと同じ場所に向かって、その場所で同じ時間を過ごそうとしているのに。
教室に入ったら、いつぞやと同じように、僕の教科書とノートと文房具は、ゴミ箱に捨てられていた。
クラスの連中の嘲笑の中、僕は無言で、ゴミまみれの道具を回収する。
「近野、またゴミあさってやがるぜ？」
「わー、汚ねー！」
「サイアクー」
僕はゴミの中に、僕の描いている漫画の原稿も見つけた。
そういえば、昨日置き忘れたんだっけ……。
その原稿も、一枚一枚回収する。
僕は再び、迫害にさらされていた。
無抵抗な一人の人間を生け贄に仕立て上げ、その人間をよってたかって傷つけて楽しむ、そんな連中ばかりのこの世界。
あいつらは、何年か経って今の事を思い出しても、悪い事をしたなんて思わないだろう。
「青春の時代の中の、くだらない一つのエピソード」……、その程度のものとして軽く扱い、そしてきっと、「そういえばそんな事もあったね」と、楽しげに語り合うのだろう。
本人の心に、どれだけ深い傷を残したのかも知らずに……。
こんな奴らの中に、僕は輝きを見つけることなんて、できなかった。
……泉はどうやって、こんなくだらない連中の中に輝きを見いだしたのだろう？
泉？
そうだ、泉だ。
以前はここで泉がやってきて、持ち物をゴミ箱から回収する僕を、手伝おうとしてくれたんだ。
あの時は断ったけれど、今なら素直に受け入れることができるだろう。
でも……、
泉はもう、この学校には来ない。
僕の能力によって消滅していた全ての物は、何事もなかったかのように、元へと戻った。
そう、何もかもが元に……。
泉の体を冒していた不治の病も……。
彼女は今、あの総合病院の病室にいる。
そして、泉の意識は、もうない。
意識を完全に失ったまま、彼女は残り少ない人生を送らなくてはならないのだ……。
「おら！ 近野！ 立てよ！！」
泉の病気について知った大島は、ショックだったのか、荒れるようになった。
サッカーの戦績もまるで振るわず、ついにはレギュラーをも外されてしまうと、その悔しさも含めて僕に当たり散らすようになる。
「いいか、明日は一万円持ってこい！ 持ってこなきゃ、ブッ殺すぞ！！」
事あるごとに僕を殴り、いたぶる大島、それに便乗して、僕に暴力を加えて楽しむ、大島の仲間。
あの屋上も、もはや聖域ではなくなり、もう僕の隠れることができる場所は無くなってしまった。
学校になんか行きたくない……。
でも、学校に行かなかった事が親に知られたら、僕は親に半殺しにされる。
……父も母も嫌いだ。
「こんな成績じゃ、Ｓ高には進学できないだろう！」
これが、僕の両親の口癖だった。
父も母も、僕に暴力を振るう。テストの点が悪いと殴る。学校に行きたくないと言っても、殴られて行かせられた。
隠れて描いていた漫画の原稿を見つけられて、「勉強もしないでこんな事を」と言われて、破り捨てられた。そして僕も、灰皿で頭を殴られたのだ。
今は夜。
僕は、高層ビルの屋上の展望台にいる。
最近、ここにやってきて、夜景を眺める回数も多くなった。
美しい夜景を眺めれば、この世界も少しは好きになることができる。
でも、最近はその効果も薄れてきた……。
もう、生きたくない……。
これが、僕が取り戻した、輝きに満ちた世界なのか？
輝きのない世界。
あらゆる存在が、僕を傷つけ、苦しめようとする世界。
表面的な部分だけが明るくて、心の中はどす黒い、そんな奴らが好かれる世界。
ずるくて、狡猾で、仲間内の結束だけは固い連中が、甘い汁を吸う世界。
子供の尻を叩きながら、「人一倍勉強して、他人を蹴落として上に這いのぼれ」と教えるのが子への愛情なんだと、そう信じている親たちばかりの世界。
水も空気も土地も食べ物も汚染物質にまみれ、それらに体を蝕まれている事に恐怖を感じ続けながらも、毒を喰らい続けなくては生活できない世界。
為政者たちの思惑だけで国家同士が戦争をして、その中で罪のない人々がゴミのように殺され、死体などとはとても呼べないような、飛び散った単なる血まみれの肉片へと変えられてゆく世界。
絶大な権力や財力を持つ強者が弱者を踏みにじり、彼らの人生を台無しにしても、平気で許されてしまう世界。
そして、そんな真っ暗闇の中で、やっと見つけた一つの輝きが、僕の目の前から失われてしまった世界。
泉のいない世界……。
僕は、大声で泣いた。
涙がポトポトと、展望台の床に落ちて染みを作ったが、それでも僕は泣くのをやめなかった。
そして、思った。
こんな世界なんか、消えてしまえと……。
僕はまた、あの夢を見ている。
泉と一緒に、幸せな人生を歩んでいる夢。
輝きに満ちあふれた世界の夢。
そして、ある日突然に全ての輝きが失われる夢……。
真っ赤な海の中を、僕は泳いでいる。
地獄のような熱さに耐えながら。
そして、頭上に浮かぶ無数の口たちの罵りに耐えながら……。
「バカ！」「サイテー！」「ネクラ野郎！」「お前に生きる資格なんてねーよ！」「だからいつまでも友達できないのよ！」
やめろ……。
なんで、僕をみんなで攻撃するんだ……？
「ゴミ！」「クズ！」「ウジ虫！」「痰壺野郎！」「下司下郎！」「ＦｕｃｋＹｏｕ！」「人間なんかやめちまえ！」「地獄に落ちな、糞野郎！！」
やめろよ……。
何もかも消えろ……！
消えろ！！
「わはは！」「ワッハッハッハッハッ！！」「ぎゃははははは！！」「きゃはははは！」「ひっひっひっひっひ！」「うひーうひー」「ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ」「ゴヒハハハハハハハハハハ！！」
消えろ！
消えろ！
消えろーーーっ！！
その次の瞬間に起きた、一瞬の目まい。
そして、
消えた。
僕を苦しめるものは全て消滅し、後には虚無だけが残った……。
ここで、僕は目を覚ました。
そして、即座に、感覚的に悟ったのだ。
失われたはずのあの力が戻ったことを……。
僕が望んだこと……、それは、この世界を、今度こそ完全に消し去ること。
この忌まわしい、吐き気のする、汚物ばかりで満ちあふれた、輝きのない世界を、抹消しよう。
僕は、再びあの展望台に足を運んだ。
街の夜景を見ながら、この世界を消してやるのだ……。それは、この世界が美しいのだという幻想を、少しの間でも抱かせてくれたあの夜景に対する、せめてもの感謝の気持ちだった。
やがて、日が沈み、夜がやってきて、くだらない連中によって作られた、くだらない夜景が、僕の目の前にあらわれる。
僕は目をつぶって、これから消えるこの世界に対して、軽く黙とうをした。
そして、僕は目を開き、大きく息を吸った。
僕がここで「消えろ！」と叫べば、この世界は消滅するのだ。
刻一刻と迫る終末に、僕の胸は、ドクドクと高鳴っていた。
その時、僕の背後から、一つの声が聞こえてきた。
「きっと、輝きは見つかるよ……」
忘れかけていた声。
忘れてはいけなかった声。
僕は、ゆっくりと振り向いた。
そこにいたのは……、
「ナオヤ君だったら、きっと輝きを見つけ出せるよ。このわたしのように……」
僕のただ一つの輝き、
泉……。
「泉ちゃん……、君は、病院に……」
「病院にはさっきまでいたよ。でもね」
「でも……？」
その時、僕はある事に気付いてハッとした。
泉の像が、あまりにもぼやけているのだ。
僕の頭の中に、一つの単語が浮かぶ。
『幽霊』
まさか、泉は……。
「泉ちゃん、君は……」
「ううん、わたしはまだ死んじゃいないよ」
泉は微笑みながら、でも、悲しげな顔をして、
「もうすぐ、死んじゃうんだけどね」
「そんな……」
「だから、わたしの心がこの世を離れる前に、あなたにお別れを言いに来たの」
「お別れなんて……、嫌だ、そんなの！ 君が、君がそんなになってしまうなら……、こんな世界、元に戻さなければよかった！」
「戻ってよかったんだよ……。だって、わたし、たくさんの友達のことを思い出すことができたんだもの。輝きを取り戻すことができたんだもの……」
「どうして！」
僕は、たぎり落ちる涙を拭おうとせずに、叫んだ。
「どうしてそんな事が言えるんだよ！ 君は死ぬんだぞ！！ それなのにどうして！！」
「わたしね……」
泉は、ニコリと笑った。
「病気に感謝してるんだよ」
「病気に……、感謝？」
「うん……。病気のおかげで、わたしは多くの事を知ることができたんだもの。時間一刻一刻の大切さ、生きることの素晴らしさ、そして、わたしの大切な人たちの優しさ……、人々の輝き……」
わからない！ わからないよ！ 君は優しすぎるんだよ！！
「だけど、世界が戻らなかったら、わたし、そんな素晴らしいものを忘れたまま、生きて行かなきゃならなかったのよ。だから……」
「そのかわり、僕は輝きを失ってしまうじゃないか！！」
僕は無意識のうちに泉に手を延ばしていた。
「君をあの世になんか行かせるものか！」
「駄目だよ……。わたしだって行きたくないけど、でも、行かなきゃならないの……」
「嫌だ！ 嫌だ！ 絶対に君を離さない！」
「ナオヤ君、輝きを失っても……、新しい輝きを見つければいいんだよ。ナオヤ君には、その力があるんだよ……」
「だけど僕は、新しい輝きを見つける前に、この世の暗闇に飲み込まれてしまう！ だけど、僕のもとに君という輝きがあれば、暗闇だって恐くなんかないんだ！ 新しい輝きも、いくつだって見つけられる！」
泉が何か言った。
しかし、僕はそれを聞かずに、力を発動させた。
グワゥン！
天と地がひっくり返るほどの、凄まじい目まいがやってきた。
そして、僕の視点は暗転する。
暗闇の中に、ぽつんと一人だけ立っている僕。
「わはは！」「ワッハッハッハッハッ！！」「ぎゃははははは！！」
僕の頭上に、無数の口が浮かび上がる。
「サイテー！」「ネクラ野郎！」「お前に生きる資格なんてねーよ！」「ゴミ！」「クズ！」「ウジ虫！」
ありとあらゆる言葉で罵倒するそいつらに向かって、僕は大声で叫んだ。
「まだ邪魔をするかぁ！！」
「甘ちゃんが！」「泉がいなけりゃ何もできないのかよ！」「いつまでも泉ちゃんの胸の中で泣いてな！」「泉の輝きに、一方的にしゃぶりついてな！」「ワハハハハハ」「うひひひひひ」
「違う！ 僕が彼女の輝きを受けるだけじゃない！ 僕も泉の輝きになってやる！」
僕の手の中に、光るものが出現した。
「彼女が僕を照らすのに負けないくらい、僕は彼女のことを照らしてやる！ 虐げられたって、殴られたって、罵られたって、倒されたって、何度でも、何回でも立ち上がって、泉のことを輝きで包み込んでみせる！！」
その光は、棒状に伸びて、まるで輝く剣のようになった。
「無理だ！」「無理だ！」「無理だ！」「ぎゃははははははは！！」
「僕は……、僕は負けない！」
輝く剣を手に、僕は空高く飛び上がった。
「泉の体を冒す病魔よ！ 消えろ！ 消えて、泉を死の運命から解放しろ！ そして……」
僕は、剣を振りかざし、そして、
「僕に輝きを返してくれえええッ！！」
ジュバオォッ！！
左から右へと、無数の口の群れを切り裂いた。
次の瞬間、切れ目から、ものすごい勢いで光があふれ出た。
目の前が真っ白になり、何も考えられなくなる。
凄まじい衝撃が僕を襲い、ぐるぐると頭の中が回転した。
気持ち悪くて、嘔吐感を感じるほどに目が回る。
そして、僕は気を失った。
その直前に、僕は、小さな声でつぶやく。
「これで……、これでよかったんだ……」
気を失いながら僕は、自分の能力が、今度こそ完全に失われたことを確信した。
もうすでに、時は次の日の朝になっていた。
「ほらほら……」
誰かが、うつぶせになっている僕の背中をつついている。
僕は、それで目が醒めた。
「そんな所で寝てたら風邪ひいちゃうよ」
……誰だ？
「でも、大丈夫。風邪ひいたら、お見舞いに行ってあげるから」
こんなお節介な事を言う奴は……、
そうだ、一人しかいないじゃないか。
「泉……」
ごろりと体を転がして、仰向けになる。
そこには、僕のよく知っている顔……。
「おはよう、ナオヤ君」
「泉……ちゃん、君は、病院にいた筈じゃ」
「退院できたのよ。それで、病院から急いでここに来たんだよ」
僕は、固い床の上で眠っていたおかげで、ちょっと痛くなった体を持ち上げて、立ち上がった。
「でも、どうして、僕がここにいるのがわかったの？」
「だって……」
泉は、満面の笑みを浮かべた。
「昨日、ここで話してたじゃない」
そうか、泉は昨日のやりとりを、覚えているんだ。
「……ごめんよ、泉ちゃん」
「ナオヤ君……」
「僕は、勝手にこの力を使ってしまった……。結局僕は、意気地なしで、弱虫だったんだよ。自分一人で輝きを探す勇気なんて、なかったんだ。だから、こうやって君を……」
「もう、いいのよ……。ありがとう、ナオヤ君。わたしの命を助けてくれて……。わたし、本当は、死ぬの怖かったの。『病気に感謝してる』なんて、強がりだった。ほんとは、自分の運命をずっと嘆き悲しんで、心の中では一人で泣いていたんだよ……」
彼女は笑顔のまま、涙を流した。
「でも……、もう、わたしは泣かなくていいの……」
「……僕は取り返しのつかない事をするところだったよ。この世界は、僕にとって暗闇だったんだ。だから消えてしまえって思った。でも、今は違う。だって、目の前に、こんなにまばゆい輝きがあるから」
泉は、僕の手をそっと握ってくれた。
「この世界には……、たくさんの輝きがあるんだよ。暗闇なんかじゃないんだよ。だから、一緒に見つけようよ、この世界にいっぱいある輝きを……」
ながらく触れていなかったその手は、暖かくて、優しくて……、
「そうだね。泉ちゃん……」
窓の外から、暖かい日の光が入ってくる。
その光は、泉の笑顔を照らし、美しい彼女の髪と、透き通るような彼女の肌を、明るく輝かせてくれた。
窓の外に広がる、日の光に照らされた、朝の街並み。
その街は、キラキラと輝きながら、今日も動き始めようとしていた。
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