Primal Heart
『そもそもわたしは、なぜ、彼に惹かれたのでしょうか？
わたしは、自分のクラスの中の、誰の悲しむ顔も見たくなかった。だから、彼を助けようとした。……そう自分では思っていました。
でも、よく自分を振り返ってみれば、本当はそれだけではなかったのです。
わたしは、友達の優しい輝きに包まれていました。それでも、まだ心は暗闇の中にあって、そしてその暗闇の中でずっと泣き悲しんでいたのです。
そして、彼ならそのわたしの心の闇を理解してくれると思いました。
なぜなら、彼も暗闇の中で、一人で泣いていたから。だから、わたしと一緒に、光の届かない暗闇の世界の中で泣いてくれると思った……。
……卑怯ですよね。口先では、彼を光の世界に導いてあげたいなんて偉そうに言っておいて、実はそれは彼に近づくための口実で、本当は、闇の中にいる彼に救いを求めていたなんて……。
でも、それはもう、遠い遠い過去の話。
なぜなら、それは本当の彼に接するきっかけでしかなかったのだし、それに……、
彼の本当の気持ちを知って、心の叫びを感じて、そして彼の大きな力がわたしを死の運命から救ってくれて……、わたしたち二人の間には、何物にも代え難い絆が生まれたのですから。
わたしは今、とても幸せです。
彼の優しさに包まれて、そして、今度こそ、本当に、輝きに満ちあふれた世界の中に生きることができるのですから。
二人で、手をとりあって……。』
時は巡って、一年後の五月。
放課後。
新しい学校の制服に身を包んで、僕と泉は学校の並木道を、校門に向かって歩いている。
「ほら、ナオヤ君、これ見て」
「……ん？ ああ、ニンジンのぬいぐるみが……、六本？」
「うん、昨日の帰りに、ぬいぐるみキャッチャーで取ったの」
「それで今、合計で何本？」
「うーん、五十本ぐらいかな。これでウサちゃんも大喜びだよ」
「……ウサちゃんは何体？」
「一匹」
「……腹壊しそうだな」
「ははっ、そうだね」
僕と泉は、同じ高校に進学した。
僕の当初の志望校、……というより、両親に受験を強要されていたエリート校・Ｓ高には、結局落ちてしまった。
でも、Ｓ高は、学校生活のみならず、校外活動や日常生活に至るまでの、がんじがらめの完全管理教育で知られている。そんな学校より、自由な校風の今の学校の方が、僕に合っている。
「ところで、ナオヤ君」
「なに？」
「どこかの部活に入るの？」
「いや、入るつもりは今のところないけど、どうして？」
「いやね、ナオヤ君に、ピッタリの部活があるんだけど……」
「僕にピッタリの？ 何部？」
「それはね……、あ！ ちょうどいいところに！」
彼女の目線の先を見ると、そこには、身長が高めのポニーテールの女生徒が、こちらに背を向けて歩いていた。
泉は、その女生徒に向かって走ってゆき、
「智恵（ともえ）ー！」
智恵と呼ばれた女生徒は振り向き、
「あら、天田さん……」
僕は走って、その二人の前にやってきた。
泉は、僕と智恵に、お互いを紹介した。
「この子が、わたしの友達の狭山（さやま）智恵。それで、こっちが、わたしの彼氏の近野ナオヤ君だよ」
な！？
「か、彼氏！？」
「ん？ なんか間違ってる？」
……確かにそうだが、改めて言われると、なんだか……。
智恵は、僕に頭を下げて、挨拶した。
「はじめまして、近野さん」
柔和な顔つきに、丁寧な口調だった。
「あ、こちらこそ……」
思わず、僕も頭を下げてしまう。
「近野さんのお描きになられた漫画、拝見いたしましたよ」
「は？ 僕の漫画を？」
なぜ初対面の彼女が僕の漫画を？
……まさか？
「泉ちゃん……」
「ご、ごめんね、勝手に見せちゃった……」
慌てて謝る泉。僕の描いた漫画は、他の奴には見せるなと、あれほど言ったのに……。
と、その時、
「……とても、素晴らしいと思いました」
という言葉が、智恵の口から出た。
「……え？」
「わたくし、漫画研究会の者なのですが……、先輩方にお見せしたところ、大変お気に入りになりまして、是非ともわが部にお迎えしたいとのことで……」
「僕を……？」
泉が、
「つまり、そういうこと。ナオヤ君にピッタリの部って」
結局僕は、じっくり考えてから答えを出すことにして、泉と一緒にその場を後にした。
「ナオヤ君……、わたし、あの場で入部ＯＫしてもよかったと思うけど」
「いや、そういうわけにも……」
「……この学校の漫研ってね、結構伝統がある部なんだよ」
「……そうなの？」
「その漫研の先輩には偉い人が多くて、漫画が気に入られてスカウトされるなんて、滅多にないんだよ」
「つまり……」
「それだけ凄いってことだよ！ ナオヤ君の漫画は」
泉は、僕の方を向いて、笑った。
僕の漫画が、認めてもらえた。しかも、なにやら凄そうな人に。
それは理屈抜きに、純粋に嬉しい事だった。
自分が認めてもらえるなんて、滅多にない経験だったから……。
思わず、僕はつぶやいた。
「いい事って……」
「ん？」
「あるもんだなあ……」
学校からの帰り道の途中、僕たちは公園に寄った。
泉の家の近くの児童公園だ。
子供たちの遊び声が聞こえる中、僕と泉は隅のベンチに腰掛けている。
「さ、食べよー」
彼女は、膝の上で「ル・シャトー」の紙袋を開けた。
甘くて香ばしい匂いが漂ってくる。
泉はドーナツを一個取り出すと、それをパクリと一口かじる。
「おいしー！ ナオヤ君も食べなよ」
「うん……」
僕も、紙袋の中から、ドーナツを取り出した。
でも、なぜかそれを食べる気にはなれずに、手に持ったままじっと眺める。
「……どうしたの？」
「なんだか……、このドーナツは……」
「このドーナツは？」
「好きになれない……」
「……こんなにおいしいのに？」
「このドーナツには、とても嫌な思い出があるから……」
「ナオヤ君……」
その時、
「うわーん！！」
女の子の泣き声が聞こえて、僕と泉は、同時にその方を向いた。
小学一年生くらいの女の子が、一人で突っ立って泣いている。
「……！」
泉は、ドーナツの袋を持ったまま立ち上がって、その子のそばに駆け寄った。そして、女の子に優しく語りかける。
「どうしたの？」
相変わらずのお節介ぶりだ。でも、
「う、うえーん！！」
女の子は泣きやまない。泉は、何度かコミュニケーションを試みるが、うまくいかず、困り果ててしまう。
その時、泉は、
「……そうだ。これあげる」
と、袋の中からドーナツを取りだして、その子に与えたのだ。
「……え？」
ドーナツを受け取ったその子は、小さな口でそれを一口食べると、とたんに泣きやんでしまった。
「おいしい？」
泉がたずねると、その子は、
「うん！」
と、笑顔で、元気よく応えたのだ。
「よかったね」
泉は、女の子の頭を優しくなでて、そして、こっちに戻ってきた。
「不思議だね、さっきまで、あんなに泣いていた女の子が、すぐに泣きやんじゃった」
ドーナツの予想以上の効果に、泉は感心していた。
「そうだね……」
「『幸せになれる味』って、本当だったんだね」
そう言って彼女は、自分の食べかけのドーナツを、おいしそうに口にした。
「僕は……」
「ん？」
「このドーナツは好きじゃないけど、もし、君やみんなが、このドーナツのおかげで幸せになれるのなら……」
「……」
「僕は、このドーナツのことを、少しぐらいは好きになれるかもしれない」
と、僕は、ドーナツをパクリと食べた。
「……うまいね、これ」
「ははっ。ナオヤ君も、幸せになろうよ」
「……そうだね」
夕日の中、僕たちは公園をあとにする。
「ねえ、今度の日曜さ、どこか遊びに行かない？」
「日曜かあ……。よし、行こうか。どこがいい？」
「そうね……」
そんな事を話しながら、僕と泉は、一緒に道を歩く。
「それじゃ、映画館はどう？」
「映画か。いいね……」
「どこの映画館でどんな映画やってるのか、わたし、調べておくから」
「うん、頼んだよ」
「任せて！」
泉は、満面の笑顔を僕に見せた。
僕が閉じこもれる家は、もうない。
この世界は暗い。
辛いことも、苦しいことも、悲しいことも、山のように存在する。
でも……、
暗いけれど、完全な闇じゃない。
この世界には、たくさんの輝きがあるんだ。
そして、常に輝きを見失わずにいれば、どんな困難だって、きっと乗り越えていけるんだ。
だから、勇気を出して歩いていこう。
お互いの手と手をとりあって……。
「じゃ、ここでお別れだね」
「うん……、また、明日……」
「あ、待って」
「ん？」
彼女は、無言で目をつぶった。
泉の少し伸びた髪が、夕日を受けて、赤く美しく輝く。
アスファルトの地面に長く伸びた二つの影が、ゆっくりと近づき、そして、重なる。
涼しい夕焼け空の下、僕は大好きな人の優しいぬくもりを、いつまでも感じていたのであった。
「Ｐｒｉｍａｌ Ｈｅａｒｔ」
完
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