Primal Heart
一軒の家があった。
一軒の広い家の中に、僕は閉じこもっていた。
家の中には必要な全ての物があって、中でじっとしているだけで、何もかもが事足りた。
つまり、家の外に出る必要は全くなかったのだ。
でも、それは違った。
本当は家の中には、必要なものは揃っていなかったんだ。
だから、僕は、ドアを開けて、外に出る。
僕は、恐くなんかない。
だって、外は、こんなに明るいじゃないか。
そして、僕のそばには、大切な絆がある。
この絆がある限り、僕はずっと、輝きと共に生きていくことができるんだ……。
世界は、元に戻った。
街並みは再生し、学校も、みんなも、僕の両親も戻ってきた。
また、いつも通り、毎日学校に通う生活が始まるのだ。
……でも、僕の一日の過ごし方は、前と大きく変わっていた。
前は、学校に行くのが辛かったけれど、今では楽しくてたまらないんだ。
学校のみんなが、僕をクラスメートとして受け入れて、優しくしてくれる。
みんな、本当はいい奴らだったんだ。それを、以前の僕は認めようとしなかったから、彼らとの間の溝は広がるばかりだったんだ。
大島もそうだった。彼は仲間と一緒に、今までの僕に対する仕打ちを謝った。
彼は言った。
「オレがいくら謝ったって、お前の気が晴れないことはわかってる。だから、オレのことを好きなだけ殴ってくれ。お前の気が済むまで！」
僕は、彼を殴ろうとなんかしなかった。大島が謝ってくれた……、それだけ十分だったんだ。
もういいんだよ、大島……。これからは、ずっと仲良くしようよ。
僕は今、屋上にいる。
もちろん、逃げて来たんじゃない。なんだか、久しぶりにここに出たくなったという、ただそれだけの理由だ。
太陽の光を浴び、涼しい風を受けながら、僕は一冊の手帳を取り出して、読む。
『復讐』の内容で真っ黒になっている手帳。
我ながら、恥ずかしい内容だと思う。
僕は、彼らとのコミュニケーションを拒み続け、自分の世界に閉じこもって、こんな事をしていたんだ……。本当に愚かしい。
「僕って……、本当に最低だったよな」
僕は、隣にいる少女−−泉に言う。
「もう……、全部昔の話よ」
そんな彼女の言葉を聞きながら、僕はだいぶ前に、この屋上で交わした泉との会話を思い起こす。
『どうして、いつもこんな場所にいるの？ みんなと一緒にお弁当食べたり、遊んだりしている方が楽しいのに……』
『天田さんは、僕がいつもクラスの連中にどんな仕打ちを受けているのか、わかってるだろ？ あんな奴らと一緒にいるのが、どうして楽しいんだ？』
『近野君……、いつか気付く筈だよ、みんなの良さに。だから、みんな悪い人なんだって、決めつけるのはやめようよ……』
「泉ちゃん……、君の言った通りだったね」
「え？ 何のこと？」
「みんな……、いい奴だったんだね」
「どうしたの、唐突に？」
「いや、ただ、なんとなく、ね」
「……ふふっ」
優しい彼女の笑顔。
風に揺れる短い髪と、光に照らされる、透き通るように白い肌が、綺麗だった……。
時は巡る。
僕と泉は中学を卒業し、同じ高校に入学した。
泉の髪は、ちょっとだけ伸びた。
高校でも、僕と泉にはたくさんの友達ができて、みんなと一緒に、毎日を楽しく過ごすことができた。
悩みもたくさんあったけれど、みんなが相談相手になってくれたから、あまり苦しくはなかった。
時はさらに巡って、僕と泉は同じ大学の同じ学部に進学した。
学科は違ったけれど、僕たちはできるだけ毎日、放課後に会うようにしていた。
泉の髪は長くなり、彼女はその長い髪を後ろで束ねている。
泉は可愛くて、誰からも好かれる子だったから、男の学生から「つきあってくれ」って言われることも多い。……言うまでもなく、そのたびに彼女は「ごめんね」って断るんだけれど。
僕たちは、同じ会社に就職した。
勤務地も、部署も同じ。
でも、僕は一年で、会社を辞めてしまった。
有名少年漫画誌に応募した漫画が賞を受賞し、僕は漫画家としてプロデビューしたのだ。
会社員と漫画家を兼業していたのは最初だけで、僕はすぐに、漫画一本に専念するために退社したのだ。
泉は、僕が辞めたのを残念がっていたけれど、そんな事で僕たちの関係が途絶える筈がなかった。
そして……、
「ただいまー」
玄関から、泉の声が聞こえた。
「ただいまーっ！」
幼稚園に通う由宇（ゆう）−−僕と泉の息子−−の声も聞こえた。
二階の仕事場で作品を仕上げていた僕は、一階におりて、愛する妻と子を迎えた。
僕と泉は、めでたく結婚した。
泉の家族との話し合いの結果、僕が天田家に住むことになり、よって今、この家の表札には「天田」と「近野」の二つの姓が並んでいるのだ。
泉は会社員を続け、僕は家の中の一室を仕事場に、漫画家稼業を行っている。
そんな中で、二人の間には子供も生まれ、泉の両親と三世代水入らずの生活を送っているというわけだ。
「あれ？ お父さんとお母さんは？」
泉は、両親が家の中にいないのに気付き、僕に聞いた。
「あれ、知らなかったっけ？ 義父さんと義母さんは、旅行に行ったんだよ」
「えー？ そんなこと聞いてないよ……。困ったなー。夕食の準備、お母さんがやってくれてると思って、今日は何も買ってこなかったのに……」
「うーん、そうだな……。野菜と肉とカレールウはあるから、ここは簡単に、カレーでも作って食べようか？ 僕も手伝うから」
「うん、そうしましょ」
その時、僕たちのやりとりを聞いていた由宇が、
「わーい、カレーだー！！」
そんな由宇の喜びようを見て、僕と泉は顔を見合わせて笑った。
「まあ、由宇。ちゃんとニンジン、全部食べられたんだね」
「うん！」
「えらいねー」
「えへへ……」
「それに比べて、おとうさんは……」
ギクッ
「こんなにニンジン残して……」
「う、うう……」
「すききらいはだめだよ、パパ！」
「ふ、ふえーい……」
「クスクス……」
その夜。
二階にある僕たち三人の寝室にて。
由宇と泉は、同じベッドの中でぐっすりと眠っている。
「よく眠ってるな……」
パジャマ姿で、僕は妻子の寝顔を眺めた。
本当に、可愛い二人の寝顔……。
漫画家の仕事は、結構ハードだ。時々辛くなって、こんな仕事やめてしまえば、どれだけ楽になれるだろうかと思うこともある。
でも、そのたびに愛する家族の顔を見て、思い直すのだ。
この幸せを維持するためにも、僕は頑張らなきゃならないんだと。
……そう、幸せだった。とても……。
その時……、
（待てよ……？）
僕は、ある事に気付いた。
それは、言葉で言い表すことが出来ない違和感。
この世界が、どこか不自然であることを感じ取ったのだ。
（なんか、変だ……）
「ナオヤ……」
背後から、泉の声がした。
「……いず……み？」
なぜか、振り返るのが恐かった。
額に汗が浮かぶ。
僕はゆっくりと、おそるおそる振り向いた。
パジャマ姿の泉……。いつもと変わらない泉……。
「あのね……」
そう言って彼女は、月明かりの差し込む窓の前に移動した。
そして、僕の方を向いて……、
「さよならだよ」
その時だった。
ガシャーン！！
突然、窓ガラスが割れた。
「！！」
そして外から、弾丸のようなものすごい速度で、無数の石つぶてが飛び込んできたのだ。
ひゅひゅひゅひゅひゅひゅひゅ……。
それらはことごとく泉の体に命中し、そのたびに彼女の体には、まるで陶器人形のようにヒビが入ってゆく。
「泉！！」
何もできない僕の目の前で、彼女はヒビでボロボロになった顔で、ニコリと微笑む。
そして、次の瞬間……、
ビュッ！！
一個の石つぶてが彼女の頭部に命中した。
「うわーーーっ！！」
僕の叫び声に包まれながら、泉の頭は粉々に砕け散った。
「泉！ いずみ！ イズミーーーッ！！！」
それが、幻影の終焉の始まりだった。
突然、家全体がガタンと傾く。
「何だ！？」
僕は泣き腫らした目で、割れた窓から外を見た。
そこに広がっていたのは、悪夢のような光景……。
「！！」
まるで溶鉱炉の内部のような、どこまでも広がる、真っ赤に熔けた金属の海！！
そして、この家は灼熱の海の上に浮かんでいて、今まさに、ゆっくり、ずぶずぶと中に沈んでいっているのだ。
「由宇！！」
僕は、無我夢中になりながら、ぐっすりと眠っている息子を抱えて、ベランダに飛び出して手すりによじ登り、屋根の上に移動した。
でも、そんな事をしても、ほんのわずかな時間稼ぎにしかならなかった。
家は確実に沈んでゆき、高温で溶けてゆく。
一階が沈み二階も沈み……、
そして、ついには家全体が沈んで……！
「ギャーーーっ！！」
僕の足が赤い海に浸かり、僕はあまりの熱さと激痛で絶叫した。
足をジタバタさせるが、逃れられるわけがない。僕は、せめて由宇だけは、ほんの僅かな時間だけでも生き延びられるように、その体を頭の上に持ち上げた。
そんな努力をあざ笑うかのように、僕の体は沈んでゆき、やがて、僕も、由宇も、溶けた金属の中に沈みきってしまった。
由宇は、一言も声をあげずに、溶けて無くなってしまった……。
でも、僕の体だけは溶けなかった。僕は溶けて無くなることなんか許されずに、この地獄の中で灼熱の痛みにさらされ続けるのだ！
熱い！ 痛い！ 苦しい！ 殺してくれ！
そうだ、泳ごう。何キロ、何十キロ、何百キロ泳がなくてはならないのかは知らないが、とにかく泳げば、いつかは陸地にたどり着く筈だ！
僕は手と足を動かして、水面上に這い出た。
地獄の苦痛に耐えながら、何時間も泳ぎ続ける。
でも、事態は一向に変化を見せない。
灼熱の水平線はどこまでも続き、頭上の空は真っ黒なままだ……。
と、その時、
「！！」
その真っ暗な虚空に、突如、無数の口が浮かび上がったのだ。
何百、何千、何万、いや、何億という口！
そしてそいつらは一斉に、僕の知る限りのありとあらゆる罵りの言葉で、僕を貶め、罵倒してきた。
「バカ！」「サイテー！」「ネクラ野郎！」「お前に生きる資格なんてねーよ！」「だからいつまでも友達できないのよ！」
やめろ！
「ゴミ！」「クズ！」「ウジ虫！」「痰壺野郎！」「下司下郎！」「ＦｕｃｋＹｏｕ！」「人間なんかやめちまえ！」「地獄に落ちな、糞野郎！！」
やめろ！！
「わはは！」「ワッハッハッハッハッ！！」「ぎゃははははは！！」「きゃはははは！」「ひっひっひっひっひ！」「うひーうひー」「ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ」「ゴヒハハハハハハハハハハ！！」
やめろ！！ やめろーーーーッ！！！
「！！」
全身汗だくになりながら、僕は目覚めた。
「夢か……」
ここは、見覚えのある僕の部屋……。
そして僕は、十五歳の中学三年の、近野ナオヤ……。
「……そう、全部夢だったんだ……」
泉との生活も、泉との間に生まれた子供のことも、漫画家になった事も、高校・大学での生活も……。
そして、泉との思い出も、全てが夢……。
「……そうだよなあ……」
僕は、ガタガタと震える手で、目を押さえながらつぶやいた。
彼女との幸せな暮らしを、未練がましく夢に見る、そんな自分が滑稽だった。
「泉が……、いるわけないもんなあ……」
なぜなら、この世界が再生したと同時に、泉は……。
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