Primal Heart
久しぶりの、市立大野埼第一中学校。
その屋上に、泉はいた。
フェンスの前に立ち、うつろな目で、辺りの景色を見ている。こちらの方には気付いていないようだ。
彼女の顔を横から見る。……そこには、もはや以前のような明るさはなかった。
真っ暗……、そんな表現がよく似合う表情。希望も何もない、悲しみに包まれた顔。
一筋の涙が、彼女の頬を流れたのを見た。やがて彼女は、両手で顔をおさえ、その場にしゃがみ込んで、しくしくと泣き出してしまった。
「……」
僕は、黙って彼女の後ろに移動した。
そして、僕は、だいぶ前のあの日の昼に、彼女がそうしたように、
「こんな所に入っちゃダメだな」
「！？」
ビックリして、彼女は立ち上がってこちらを向き、涙を流して少し赤くなった目で僕の顔を見た。
「ナオ……」
「ビックリした？ ……天田さんも、ここの鍵をどこかで手に入れたんだね」
「ナオヤ……」
「弁当屋で、唐揚げ弁当二人分買ってきたよ。一緒に食べようよ」
「ナオヤ君！」
真っ暗だった彼女の顔が、涙で頬を濡らしたまま、急速に明るくなった。
そして彼女は、
「会いたかったよ……」
僕をギュッと抱きしめたのだ。
僕の顔は、少し赤くなった。
「あ、天田さん……、苦しいよ」
「今まで、どこに行ってたのよ……。わたし、ずっと寂しかったんだから！」
「ごめん……」
「ナオヤ君、わたし……、また、大事な友達のことを忘れちゃったのよ……」
「忘れた……？」
「また、たくさんの輝きが幻になっちゃったの……。すごく恐くて、悲しかった……」
彼女が友達を忘れた理由、それは明確だ。
僕が彼らを消したからだ。……僕は一体、泉からいくつの輝きを奪えば気が済むのだろうか？
「ごめん、本当にごめんよ……」
僕の本心からの謝罪。今さら謝っても、彼らはもう戻ってはこない事はわかっているけれど……。
「でも、大丈夫。わたし、もう恐くないから。だって……」
涙をぬぐいながら、泉は僕に言った。
「ここに輝きがあるんだもの……」
久しぶりの、楽しい弁当。
二人だけの楽しいランチ。
いつも通りの、泉の笑顔……。
「ナオヤ君って、唐揚げにケチャップつけて食べるんだ……」
「変かな？」
「わざわざお弁当と別に、ミニサイズのケチャップを買ってくるあたり……」
「好きなんだ。トンカツやコロッケも、ケチャップで食べるし」
「へえ……、なんだか、アメリカ人みたい」
「ついでに言えば、春巻きとか焼売にもケチャップつけるよ」
「わぁ……、アメリカンだ〜」
「さすがに、寿司や天ぷらにはつけないけどね」
「似非アメリカン」
「似非って言うな〜」
「くすくす……」
なぜ、物を食べるのだろう？
何も食べなくたって生きていけるのに。
一日三度の食事が、すでに「習慣」になっているからか？
それもあるだろう。でも、きっとそれ以上に、食べれば幸せになれるからだ。
食べた物がおいしければそれだけで幸せになれるし、そして、好きな人と一緒においしい物を食べれば、もっと幸せになれるから。
食べ終わった後、泉は僕に、
「明日も、ここでお弁当食べようね」
「うん……、そうだね」
「そうだ、わたし、ナオヤ君のために、作ってきてあげるよ」
「あ、でも、悪いなあ……」
「ううん、こういう事、一度はやってみたいのよ」
そうして彼女は、ニコリと微笑んだ。
その時、
キーン、コーン
昼休み終了五分前の予鈴が鳴った。
「それじゃ、ナオヤ君。授業行こ」
「授業か……、久しぶりだな」
「わたし、今までずっと一人で授業受けてたんだから。先生といつも一対一で、緊張してたんだよ……」
「ごめん……。これからは、僕も一緒だからね」
「フフッ、そうだね」
午後の最初の授業である五時限目は、英語だ。
教室にいるのは、僕と泉だけ。英語の先生はいない。……もちろん、理由は、言うまでもないだろう。
僕と泉は、長い英文をピリオドごとに区切って、一センテンスごとに、交互に訳しながら読んでいく。
「これは、『もし、私が鳥だったら、私は大空を飛んでいくでしょう』……かしら？」
「これって、仮定法だよね？ 仮定法を訳す時は、たしか……」
「あ、わかった。『もし、私が鳥だったら、大空を飛んでいけるのに』……」
二人以外誰もいない教室に、僕たちの声が響き渡る。
早く答えを言えと、せかす奴はいない。
辞書をひきながら、わからない時は相手に聞いて、ゆっくりと訳してゆく。
六時限目は体育。
二人それぞれ更衣室に行って着替えて、体育館で落ちあう。
先生はいつまで経っても来なかったので、僕たちで勝手に体育の授業を進めてしまう。
今日の体育は、二人一組でダンスだ。
ＢＧＭも何もない状態で、僕たちは汗を流して踊り続ける。
踊り方は適当だ。だいぶ前の授業のように、お仕着せの踊りに従う必要なんかない。楽しければ、それでいいんだ。
放課後、僕たちは一緒に校門を出た。
セミの鳴き声が響き渡り、暑い日光が差し続ける中、僕と泉は隣り合って、家への道を歩いていった。
そして、とある空き地のそばを通りかかった時、泉が突然立ち止まった。
「あ……」
「ん？ なに？」
「……ねえ、覚えてる？」
泉は、その中に入っていった。僕も彼女に続いて入ってゆく。
そして彼女は、ドラム缶の前で立ち止まり、かがみ込んで、手前の地面を眺めた。
「ここで、あの子と会ったんだよね……」
……あの子……。あの野良犬のことだ。
「おいしそうにドーナツ食べてた、可愛い子だったよね。もう来ないのかな……？」
来るわけがない。だって、あいつは近くの雑木林の中で、永遠の眠りについているから……。
僕は、真実を語らないで、
「そうだね……。誰かに拾われたんじゃないかな？」
と、適当なことを言って誤魔化す。
「残念だなあ……」
はあ〜、と、ため息をつく泉。
そして、ため息の後、彼女は、
「あの子のこと考えてたら……」
「考えてたら？」
「……ん、ちょっと、そこで待っててね」
「え？」
「すぐ戻るから」
泉は立ち上がり、鞄をその場に置いて、空き地を走り出ていった。
そして数分後、彼女は戻ってきた。
「ナオヤ君、一緒に食べよ」
泉の手には、ル・シャトーの紙袋があった。
「いいの？ 食べて……」
「うん。お昼のお返しだよ」
僕たちは、空き地内に積まれている木材の上に腰掛ける。
そして、泉は紙袋を膝の上に置き、開けた。
ドーナツの、香ばしい匂いがかすかに漂ってくる。
「いただきまーす」
と、泉は早速ドーナツを一個取り出し、一口食べた。
「おいしー！」
満面の笑み。本当に、幸せそうな表情だ。
「『幸せになれる味』って、ホントだね。辛いときとか、悲しい気分になっている時に、このドーナツを食べると、本当に幸せな気分になれるんだよ……」
そんな泉の語りを聞きながら、僕も紙袋に手をのばし、ドーナツを取り出す。
「このドーナツが？」
僕は、手に取ったドーナツを眺めた。
「わたしが初めてこれを食べたのは、三年のはじめに入院した時のことなの。……病気で辛かったその時に、友達がル・シャトーのドーナツを買ってきてくれて……」
「友達が……」
「『幸せになれる味だって聞いたから、泉のために買ってきた』って言われて……、それで、食べてみたのよ。そしたらね……」
『泉のために買ってきた』……？ この言葉、どこかで聞いたような……。
「不思議と、本当に幸せな気分に……」
その時、僕の頭の中に、どこかで聞いたことのある会話の内容が思い浮かんだ。
『あたし、あいつのためにドーナツ買ったんじゃないのに……』
『泉がル・シャトーのが好きだから、わざわざ行って、泉のために買ってきてあげたのに……、ね』
『泉の好意を無にしたわよ』
『何様のつもりかしら、あいつ……』
その瞬間、目まいが僕を襲った。
その直後……、
「……あれ？」
泉は、自分の手に何もないことに気付いた。
そして、膝の上のル・シャトーの袋の中に、何も入っていないことにも。
「わたし……、何か食べてなかったっけ？」
呆然としている泉。僕は沈黙したままだ。
「食べると幸せになれる……、何かを……」
さっきまでの幸福そうな彼女とはうってかわって、泉は深く沈んだ表情になる。
（ごめん……、泉。僕は、それが嫌いだったみたいだ……）
「う……、う……」
彼女は顔を強くしかめた。そして……、
「う……、ううっ……」
涙をポロポロと流して、嗚咽を漏らした。
彼女の幸福を、僕はまた一つ奪ってしまった。
自分が、どうしようもなく情けなかった。
元気で、明るくて、優しくて……、そんな純真な泉が、一体何をしたっていうんだ……。なぜ、彼女にこんなに辛い悲しみを背負わせるんだ……、僕は！！
泉に会いになんか、行かなければよかったんだ……。
ダッ！
僕は立ち上がった。
そして、何も言わず、鞄を置いたまま、空き地を走り出ていった。
背後で、泉が僕の名を呼んでいたが、聞こえないふりをして、走り続けた。
僕に、泉の側にいる資格なんてない！
だから、彼女から、できるだけ遠く離れよう。この街から……、この都市から……、この国から……、
いや、この世から！！
夕陽の下の、誰もいない小さな児童公園の中で、僕は叫んだ。
「消えろ！」
声が、辺りに響き渡る。
「消えてなくなれ！！」
僕は、いつの日にか夢想していた、人々が石つぶての嵐を食らって砕け散る光景を思い起こした。
「砕け散れ！！」
さらに、製鉄所の溶鉱炉の中に落ちて溶けてしまう人間を思い浮かべた。
「溶けてなくなれ！！」
目を真っ赤にして、頬を濡らしながら、
「僕みたいなどうしようもない人間は、消えてなくなれ！！！」
しかし、いくら叫んでも、願いは通じなかった。
「……そうかよ……、自分自身は能力の対象外なのかよ……、本当に……、どこまで不便なんだよっ！ この能力はあッ！！！」
僕は、地面に両手と膝をついて、号泣した。
涙がポタポタと落ちて、土の中に染み込んでいった。
「うわああああっ！！」
その時、
「ナオヤ君……」
公園の入り口の方から、聞き覚えのある声が聞こえた。
その方を見ると、涙でぼやけた視界の中に、泉の姿が……。
わざわざ僕を探して、ここまでやって来たのか……、本当に、あいかわらず、お節介な子だ……。
こっちに近づいてくる彼女。僕は立ち上がり、泉に大声で言った。
「来ないで！」
彼女は、その場に立ち止まる。
「どうして……、どうしてよ！？」
「僕のそばにいたら、君はどんどん不幸になってしまうんだ！」
「そんな……、言ってる意味が、わからないよ！」
「……君から……、君から幸せを奪ったのは、僕なんだ！！」
「……え？」
凍り付く、泉の顔。
「そうだ……。君の友達は、確かに存在していたんだよ。でも、僕が消してしまったんだ。彼らは存在自体が抹消されて、君の記憶からも消滅してしまった！ 友達だけじゃない、あらゆる存在が、君の周りから消えていった。……しかも、この能力は、僕にも制御できないんだ。現に僕も、彼らの顔も名前も思い出せないんだよ……」
「ナオヤ君……、嘘だよね……？」
「嘘なもんか……」
「……ひどい冗談だよ。そんな事言われたら、いくらわたしだって怒るよ」
「そうだね、僕は君に怒られても仕方がない……。でも、怒られるだけで済むなら、どれほど幸せなことか」
「……」
泉はうつむいて、唇をかんだ。
「僕がどんな奴か、わかったろう？ 僕が君のそばにいたって、君を不幸にしてゆくだけなんだよ」
「……」
泉の肩は震えていた。
「わかったら、帰ってくれよ……。もう僕は、君とは絶対に会わないから……」
「……」
しばらくの間、沈黙が続く。
僕は、下を向いて、泉の姿を見ないようにした。
彼女を見るのが……、彼女が僕を置いて去ってゆくのを見るのが辛かったから……。
しかし、
「できるわけないよ、そんなこと……」
泉は僕に近づいて、そして、僕のことを、そっと抱いてくれた。
「天田さん……」
「こんなに明るい輝きを失うなんて、わたしには耐えられない……」
「僕は……、僕は輝きなんかじゃない。僕は暗闇だ。卑怯で、臆病で、根暗で、愚かで、そして君に辛い思いをさせてしまう、どうしようもない、消えた方がいい人間なんだ」
その直後、彼女は、
「ナオヤ君……」
と、僕の顔を見つめて、そして……、
突然のことに、僕は驚いた。
僕にとって、初めての経験……。
泉の口が、そっと、僕の口に触れたのだ。
彼女の唇は、すぐに離れた。
泉は僕の体から腕をほどいて、僕の顔の涙を、手でぬぐった。
「悲しそう……、ナオヤ君……」
泉の手の感触は、暖かくて、優しくて……。
「もし、君が、僕のことを輝きだと言ってくれるのなら……」
「……」
「天田さんも、僕にとっての輝きだよ。何よりも大きな、かけがえのない、生まれてはじめて手に入れた輝き……」
真っ赤な夕陽が照り、カラスの鳴き声が遠くから響くなか、僕たちはその場で、ずっと抱き合っていた。
初夏の夕方の、暑さの入り交じった涼しさが心地よかった……。
「で……」
「ん？ なに？」
「僕が、どうして晩ご飯を作る手伝いをしなきゃならないんだ？」
まな板の上でトントンとタマネギを切りながら、僕は涙ぐんだ目で聞いた。
「涙まで流して……、ナオヤ君、そんなに嬉しいんだ、お料理ができて……」
ＴシャツＧパンの普段着姿の泉は、隣で鍋の中身を菜箸でかき混ぜている。
「これは、タマネギを切ってるから！」
「あはっ、だから、さっき言ったじゃない。今日はお母さんもお父さんもいないから、夜は何か適当に作って食べててって言われたんだけど、でも、一人で作るのは色々と大変だから……って」
それで僕は料理を手伝わされている、というわけだ。
泉の家は、さっきの公園のすぐ近くにあった。それであの後、泉に『ちょっとわたしの家に来てほしいんだけど、いい？』と言われて、何気なく承諾してしまったのだが……、まさか、こんな事だったとは……。
「えーと……、タマネギは、このくらいでいいかな？」
「うん。それじゃ、それ、鍋の中に入れて」
「わかった」
鍋の中に、僕は切り刻んだタマネギを入れた。
「うん、ありがとう。それじゃ、煮込むときにもう一度手伝ってもらうから、居間で休んでて」
「ああ、わかった」
僕は、キッチンの隣にある居間に移動し、ソファに腰掛けて休んだ。
泉の家は、大きくて広い家だった。
廊下も一つ一つの部屋も広くて、この居間でも広々とくつろぐことができる。
「……ん？」
ソファで休みながら、僕は部屋の中を見渡した。
（なんか……、この光景、どこかで見たような気が……）
だが、すぐに僕は、
（気のせいだな……）
そうだ。この家に来るのは初めてじゃないか。単なる錯覚だ……。
僕の手伝いの甲斐あって（？）、泉の料理−−カレーライス−−も、無事に完成。
「それじゃ、いただきます」
居間のテーブルを挟んで泉と向かい合っている僕は、皿に盛られたカレーをスプーンですくって、一口食べた。
「……うまい！」
「ほんと？ どんどんおかわりしていいからね」
「うん」
「ナオヤ君、今日は手伝ってくれて、本当にありがとうね」
「構わないよ、このぐらい。……それに、結構楽しかったしね」
そう答えて、僕はカレーをどんどん口に運ぶ。
「へえ、楽しかったんだ」
「うん……」
「それじゃ、これから毎日手伝ってもらおうかな」
「勘弁」
「うー……」
ぷーっと頬を膨らませる泉。でも、彼女はすぐに元に戻って、
「でも、わたしも楽しかったよ……」
「そうか……」
「もし、二人暮らししたら、いつでもこういう事ができるのかな？」
「ご！？」
いきなり泉が妙な事を言うので、僕はカレーを喉に詰まらせてしまった。
「ナオヤ君！？」
急いで水の入ったコップに手を伸ばして、ゴクゴクと飲み干した。
「ふーっ……」
「だ、大丈夫……？」
「ああ、なんとか。……でも、何だよ、その『二人暮らししたら』って……？」
泉は、クスッと笑って、僕の額に手を伸ばした。そして、
「言葉どおりだよ」
と、僕の額に、チョンと指で触れた。
夕食を食べ終わり、後片付けを済ませた後、僕は泉の家をあとにすることにした。
「それじゃ、僕はこれで……」
「うん、バイバイ……」
玄関の前で、別れをかわす。
「……ナオヤ君……」
泉は、真剣な表情で僕を見た。
「なに？」
「きっと……、また会えるよね……？」
「何言ってるんだよ。明日も学校だろ？」
「……うん」
「だから、明日になれば会えるよ……」
「うん、そうだね……。明日、学校で会おうね。約束だよ……」
そう言って、泉は微笑んだ。
彼女の大きな家を離れつつ、僕は後ろを見た。
泉は、まだ玄関の前にいて、じっとこっちを見ていた。
「泉……」
『明日、学校で会おうね。約束だよ……』
しかし、その約束が果たされることはなかった。
なぜなら、僕と泉が毎日通っていたその施設は、もはや制御のきかなくなった僕の力によって、完全にこの世から消滅してしまったからだ。
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