Primal Heart
一軒の家。
一軒の広い家の中に、僕は閉じこもっている。
家の中には必要な全ての物があって、中でじっとしているだけで、何もかもが事足りる。
でも、僕の心は、まるで満たされず、ずっとずっと空虚なままだった。
だって、僕のそばには、誰もいないから。
誰かとの心の絆。それが、僕の最も必要とするものだった……。
翌、木曜日。
その日の三限目と四限目は美術の時間で、僕たちは美術室で、課題の作品を作っていた。
作品の内容は小さな木製の彫刻で、題材は自由。みんな真面目に作っていたが、僕は、どうしても精根込めて作ってやろうなどとは、考える気にならなかった。
（どうせ、壊されてしまうんだし……）
完成した作品は、美術室の中に展示されることになっているが、僕は以前、そうして展示されていた自分の作品を、目の前で壊されてしまったことがあった。
「おっと、手が滑った」
という、大島の仲間のわざとらしい一言と共に、棚の上に展示されていた僕の陶器人形は床の上に落とされ、粉々に砕け散った。
ニヤニヤ笑いながら、あいつらはその場を去っていた。
僕は、無残に飛び散った陶器の破片をみつめながら、思っていた。
（これがあいつらだったらいいのに……。破片だけを残して消えていったこの人形みたいに、あいつらが……）
そうだ、消えてしまえばいいんだ。
大きな力に叩きのめされて、砕け散って消滅すればいいんだ。
左手に持った木材を右手に握った彫刻刀で削りながら、僕はその光景を思い浮かべる。
……いつもの三年三組の教室。
そこでは、ちょうど授業の真っ最中で、クラスの連中は全員席に座って、先生の講義を大人しく受けている。
その中に、僕の姿はない。
彼らは見た目上は、全員同じように授業を受けているが、その心の中は様々だ。本当に真面目に講義内容を聴いている奴もいれば、内職で必死な奴も、昼の弁当の内容に思いを馳せている奴も、なにも考えずにボーッとしている奴もいる。
だが、生徒それぞれのそんな思いも、これから起きる事件によって、すべて無に帰してしまうのだ。
彼らはその事を当然知らない。でも、僕は知っている。だから、僕はこの教室から避難しているのだ。
ガシャーン！！
……突然、窓ガラスが割れる。
そして、外から教室の中に、凄まじい勢いで、無数の石つぶてが飛んでくるのだ。
ひゅひゅひゅひゅひゅひゅひゅ……。
まるで難しいシューティングゲームの弾幕のような、避ける余地すらない投石の嵐。
彼らは驚く暇もなく、石つぶての直撃を受ける。被弾するたびに、彼らの体にはヒビが入り、やがて粉々に砕け散ってしまう。
さっきまで、息を吸い、物を考え、色々な思いを巡らせていた人間たちが、破片だけを残して消滅していった。男子生徒も、女子生徒も、先生も……。
そして、石の嵐がやみ、教室の中は静寂に支配される。
教室の中にあるのは石ころの山と、人間の破片だけで、動くものなど何一つとして存在しない……、
……かと思われた。
だが、女子生徒が一人だけ残っていた。
何が起きたのかわからずに、呆然としている少女。その顔はよくわからない。
やがて、その少女の頬を、一筋の涙が伝い、そして彼女は机の上に突っ伏して、泣き出してしまった。
親しいクラスメートたちが、突然、理不尽に消滅してしまった、その悲しみ……。
数分後、少女は顔を上げ、こちらを向いた。
「どうして……？」
と、一言つぶやく少女。
その顔は……、
ガリッ！！
「いたーっ！！」
突如左手の指に走った激痛で、僕の意識は現実世界に戻る。
僕が無意識のうちに動かしていた彫刻刀は、少しずつ加工対象の木材からそれて、木材を持っていた左手の指を削ってしまったのだ。
美術室の中は僕の声で一瞬沈黙したが、すぐに沈黙は止み、全員それぞれの作業を続行していった。
血の流れ出ている指を押さえている僕を顧みる人間は、一人としていなかった……。
……いや、いた。
「だ……、大丈夫、近野君？」
天田泉だ。彼女は自分の持ち場を離れて、わざわざ僕のところまでやってきたのだ。
「大丈夫だよ、このくらい……」
「ちょ、ちょっと待っててね。わたし、絆創膏もらってくるから」
相変わらずのお節介ぶりだ。本当に心配そうな顔をして……。
「いいよ、自分で保健室に行ってくるから」
「あ……」
僕は、何か言いたそうな泉をそのままに、彫刻刀と木材を作業机の上に置いて、その場から去っていった。
やがて美術の時間が終わり、昼休みも終わりに差し掛かった頃、屋上で弁当を食べ終えた僕は、三年三組の教室に戻ってきた。
クラスの生徒の大部分はまだ外に出ているのか、教室の中はまばらだった。
僕は自分の席に向かって歩いてゆく。と、その途中、
「あ、近野君」
ちょうど泉の席のそばを通ったとき、そこに座っていた泉が、僕に声をかけてきた。
「ん？ なに？」
「んと……、指、大丈夫？」
「ああ、なんとかね」
そう言って僕は、包帯を巻いた指を見せる。
「あ……、絆創膏じゃ済まなかったんだ」
「皮膚を少しえぐったから……。彫刻刀で、ガリッってね」
「わあ！」
泉は顔をしかめて、口に手を当てる。
「『ガリッ』って……、痛そう〜！ 思わず想像しちゃった……」
「そ、そう……」
「わたしだったら泣いちゃうよ……、そんな目に遭ったら……」
口に手を当てたまま、彼女は僕の包帯の指をじっと見つめていた。
ふと、僕は泉の上に、シンプルだがかわいらしい、小さな紙袋があるのに気付いた。
見覚えのある紙袋だ。どこかの店のものだと思ったが……。思い出せない。
泉に聞いてみる。
「ところで、その紙袋って、どこのお店のだっけ？」
「ああ、これ？」
「うん……」
「学校の近くの、『ル・シャトー』のだよ」
「ル・シャトー？ ……ああ、パン屋か」
「ここのドーナツがおいしくて、友達が何個かくれたんだけど……」
泉は、その紙袋を指さした。
「ちょっとわたしには多くてね、２個残しちゃったの」
「ふーん……」
「あ、そうだ。よかったら、食べる？」
「……じゃ、お言葉に甘えさせてもらうよ」
「うん。どうぞ」
そう言って泉は、紙袋の中から、ドーナツを一個取り出し、僕に手渡した。
リング状で砂糖がまぶしてある、典型的なドーナツだ。
「ありがとう。それじゃ、いただきます」
僕は、それを一口食べた。
ドーナツ本体の柔らかめの食感と、砂糖のシャリシャリした感覚が混ざり合う。
口の中に広がる甘さと心地よい香ばしさ。
「うまい……」
「でしょ？」
泉はニコリと微笑んだ。
「僕はここのドーナツ、食べたことなかったんだけどね」
「もう一個の方も食べていいから。……ちょっと、わたし、七組の友達のところに行ってくるね。すぐ戻るから」
「うん、わかった」
泉は席をたち、教室を出ていった。
僕は、一個目のドーナツを平らげ、紙袋の中からもう一個のドーナツを取りだした。
そして、二個目に口をつけようとした、その時、
「あーっ！」
ちょうど教室に入ってきたうちのクラスの女子生徒が、僕の方を指さしながら、大声をあげた。
泉と普段から仲のいい生徒だ。
「何やってるのよ！」
彼女は、早足で僕に近づいてきて、
「そのドーナツは泉にあげたのよ！ どうしてあなたが食べてるのよ！」
腹立ちをあらわにした抗議。
僕が横取りしたと決めつけているような口振りにはカチンときたが、僕は落ち着いて、
「これは、天田さんがくれたんだ」
「ふーん……」
不満ありげに、彼女は僕の前から去ってゆき、教室内の別な友達のところに行く。
僕は気を取り直してドーナツを食べようとした。
だが、さっきの女子生徒と友達の会話が、僕の耳に聞こえてくる。僕は食べるのをやめて、その声に耳を傾けた。
「あたし、あいつのためにドーナツ買ったんじゃないのに……」
「泉が『ル・シャトー』のが好きだから、わざわざ行って、泉のために買ってきてあげたのに……、ね」
その時、泉が戻ってきた。
彼女は、手つかずのドーナツを持ったまま硬直している僕を不思議そうに見て、
「どうしたの？」
「……ごめん、これ、いらない……」
僕は、ドーナツを泉に手渡した。
「え？ どうして？」
「もう、お腹いっぱいだから」
そして、僕は席に戻っていった。
さっきの女生徒たちの声が、また聞こえる。
「泉の好意を無にしたわよ」
「何様のつもりかしら、あいつ……」
じゃあ、どうすればいいんだよ。
何様のつもりねえ……。その言葉、そっくりそのままお前らに返してやるよ。
要するに、何が何でも僕を悪者に仕立て上げたいだけなんだろ？ お前らは。
帰り道。
僕は途中で、『ル・シャトー』のそばを通った。
「……」
立ち止まって、窓越しに中をのぞき込む僕。入り口近くの棚には、例のドーナツが並んでいた。
そのそばに貼られている紙に、マジックで書いてあるキャッチコピー。
『ル・シャトー自慢の手作りドーナツ 誰もが幸せになれる味』
「幸せになれる味、か……」
昼休みの件を思い出し、僕はそのうたい文句を鼻で笑う。
僕は、その場をあとにして歩を進めた。
そして、とある空き地のそばを通りかかった時、
「クーン」
空き地の方から、犬の鳴き声が聞こえた。
見ると、空き地の片隅のドラム缶のそばに、一匹の汚い野良犬がうずくまっている。
僕は、そいつの姿をじっと見つめる。
どことなく、寂しげな姿のその犬……。
その時、
「……そうだ」
僕は、ある事を思いついた。
そのままＵターンして、さっきのル・シャトーの方に戻ってゆく。
例のドーナツを二個買った僕は、空き地に戻り、さっきの野良犬の前に駆け寄った。
「今、いいモノやるからな」
僕は手に持った紙袋を開けて二個のドーナツを取り出し、犬の目の前に置いた。
腹が減っていたのか、そいつは即座にドーナツに飛びつく。
両手でドーナツを押さえつけ、食いカスをそこら中に撒き散らしながら、意地汚く、ガツガツと食い荒らしてゆく。
「うまいか？」
ガツガツ、ムシャムシャ
「お前は、普段、何を食ってるんだ？」
グチャグチャ、モグモグ
「ゴミ捨て場のゴミとか漁ってるんだろ？」
バクバク、クチャクチャ
「でも、お前としちゃ、どっちでもいいんだろ？ 食えさえすれば」
ワン
そうだ。
いくら『幸せになれる味』なんて言ったって、こいつの前では、ゴミ捨て場の生ゴミもドーナツも同列なんだ。
僕は、幸せのドーナツを単なるエサとして食べている野良犬の前にかがみ込み、ほくそ笑む。
「ざまあみろよ、幸せのドーナツ様」
「可愛い犬だね」
「！？」
後ろから突然声が聞こえてきたので、僕は慌て振り向いた。
「ど、どうしたの？ そんなに慌てて……」
そこには、学校帰りの泉の姿があった。
「天田さんか……。驚かせないでよ」
「あはっ、ごめんね」
泉は両手を合わせ、いわゆるごめんねポーズで謝る。
彼女は、僕のそばに来てかがみ込み、ドーナツを食べている野良犬を見ながら、
「この子が食べてるドーナツ、近野君が買ってきたの？」
「ああ、そうだけど……」
「へえ……。近野君、優しいんだね」
「いや。別に、親切心からじゃないさ」
「え？」
「ただ、結果的にこいつの腹は満たされたけど、ね……」
「んー、よくわかんないけど……。でも、この子がお腹一杯になれたのは近野君のおかげだってのは確かなんだから」
「そうだね……」
やがて、犬はドーナツを食べおえて、僕たちの方を向いてワンと鳴く。
「よしよし」
泉は、犬の頭を右手でなでた。
「クーン……」
「あはは、ほんとに可愛いね」
彼女にじゃれつく犬。泉の表情は楽しげだ。
「なんかこの子、おいしいドーナツを食べて、ご機嫌になってるみたいだね」
「そうかな？」
「クーン、ワンワン」
やがて、僕と泉はその空き地を去ることにした。
泉は、ドラム缶のそばにチョコンと座っている犬の方を向いて。
「それじゃ、バイバイ」
「ワン」
「ははっ、ちゃんと答えてるね」
笑顔になる泉。
「じゃあ、行きましょう、近野君」
「うん……」
去り際に、僕は振り向いて、さっきの犬を見た。
「……ん？」
その時、僕はその犬を見て、あることを感じた。
「どうしたの？」
「……いや、なんでもない」
別に、大したことじゃない。
なんだかあの犬が、ブルブルと震えていたような気がしたという、ただそれだけの事だ。
その時、ヒュウと風がふいた。
泉の短い髪が、風を受けてなびく。
「いい風だね」
近くの木が揺れ、ザワザワと音をたてる。
一枚の青葉が飛んで僕の頭の上に乗り、そして僕の足下へ、ヒラヒラと落ちていった。
帰り道を一緒に行く、僕と泉。
「……やっぱり、ル・シャトーのドーナツって、おいしいよね」
との泉の言葉に、僕は、
「うん……」
と生返事で答える。
「病院に、友達が持ってきてくれたのを食べて以来、ずっとあの味の虜になっちゃって」
……病院？
「天田さん……、病院って？」
「覚えてないの？」
泉は立ち止まった。
「近野君、病院にお見舞いに来てくれたじゃない」
「……ああ、そういえば……」
思い出した。
今年の四月、三年に上がった直後に、泉は病気にかかり、入院したのだ。
病名は忘れてしまったが、一週間ほどで退院できた程度であるから、大した病気ではなかったのだろう。
「忘れちゃったの……？」
「ごめん……」
それは、僕にとっては大したエピソードではなかった。『そういえば、そんな事もあったね』程度の。
しかし、
「ひどいなあ……」
泉は本当に残念そうだ。
「天田さん……」
「わたし、みんながお見舞いに来てくれて、嬉しかったのに……」
気まずい雰囲気だ……。
「ほ、ほんとに、ごめん……！」
僕は、泉に深く頭を下げた。
そんな、僕を見て、泉は、
「うん、許してあげる」
と、微笑んだ。
でも、こころなしかその微笑みには、まだ寂しさがいくらか残っているような気がした。
「それじゃ、近野君、また明日ね」
「うん、さよなら」
「バイバーイ」
僕は途中で泉と別れ、一人で自宅へと歩いてゆく。
歩きながら、さっきまでの泉とのやりとりを思い起こす。
誰かと一緒に家路につくという経験……。一人で帰ることがほとんどだった僕にとって、それは決して悪いものではなかった。
でも、この短い時間が、いかに貴重なものであったのか……、その時の僕は知らなかったのだ。
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