ちいさな女神が生まれた日
前に来た時から、どの位の時間が経ったのだろうか？
長い長い砂漠の旅の後では、全てが懐かしく感じる。
夜空の下の、のどかな丘。そこをのぼる道を、花穂は再び歩いていた。
目指すは、鞠絵の屋敷である。
丘の上からの光景は、相変わらず絶景であった。
前と同じように爽やかな風が吹き、緑の香りがした。
そして途中の崖には、今でも「天使の墓」という名の祭壇が存在していた。
湖のそばを通り、鞠絵の屋敷の前にたどり着いた。
門を開け、美しい花々が咲き乱れる庭を通ってゆく。
そして、はやる気持ちを抑えつつ、玄関のチャイムを押した。
しかし、家の主は出なかった。
何回かチャイムを押す。
十回目ぐらいで、ようやく家の主、鞠絵が、ゆっくりとドアを開けて出てきた。
花穂は鞠絵の名を呼ぼうとするが、その表情を見て、出かかった言葉は止まった。
鞠絵は、自らの両頬を、大量の涙で濡らしていた。
その部屋には、相変わらずオモチャが散らかっていた。
摘んできた花が、なぜか散乱していた。
机の上には、前に花穂の頭にかぶせた、花の冠があった。
そして、ベッドの上には、小さな天使が横たわっていた。
枕元に赤い宝石を置いて。
しかし、その表情は苦しそうで、息は荒くなっていた。
沈黙の中、息の音だけが部屋を包む。
そして、鞠絵の口が開いた。
花穂は、理解した。
鞠絵は、全てを知っていたのだ。
なぜ、以前屋敷にいた天使たちが、今はいないのか。
なぜ、鞠絵が、天使に宝石を持たせ続ける事にこだわっていたのか。
なぜ、白雪は「時間がない」などと言ったのか。
なぜ、件の祭壇は「天使の墓」と呼ばれているのか。
そして、理解した瞬間、花穂の両目から涙が落ちた。
花穂は、鞠絵の家を飛び出すやいなや、石版を用いて「常春の森」へと飛んだ。
そして、ピンク色の木々の間を走り、白雪のいるお菓子の家へと向かった。
すでに修復されたドアを叩くと、白雪が出てきた。
事情を説明しようとするが、状況はなかなか整理できなかった。
整理できた瞬間、白雪は絶句し、硬直した。
そして、急いで、箱に入れてラッピングした「ズンドコナッツケーキ」を差し出した。
花穂がそれを受け取り、ドアを閉めたとたん、ドアの向こうからは嗚咽が響いてきた。
聖なる丘に戻り、道を駆け上がる花穂。
「天使の墓」の前には、鞠絵に支えれて立っている天使がいた。
頭の上には、花で作った冠が乗っていた。
ひとまずは間に合った……。花穂は二人の元に駆け寄りつつ、少しだけ安堵した。
ほんの少しだけ。
ラッピングを解き、箱を開けると、天使は弱々しく微笑んだ。
白雪が天使のために作った、とっておきのケーキだ。
花穂は、一緒に入っていたフォークを握り、それでケーキの一片をとった。
そして、手が震えそうになるのを懸命にこらえながら、天使の口の前に差し出した。
天使はそれを口にする。
数回噛んで飲み込むと、再び笑顔になった。
それは、先ほどのような弱々しい微笑みではない。
最期の時を目前にしているとは思えない、満面のスマイルであった。
ケーキは全てなくなった。
天使は、ゆっくりと、右手のひらを花穂の前に差し出した。
「アリガトウ……カホチャン……」
そこには、三つの宝石の最後の一つ、赤い宝石が乗っていた。
受け取ると、宝石は、猛烈な赤い光を放った。
閃光の中で響き渡った声は、こう言っていた。
『慈愛』
天使は鞠絵の元を離れ、「天使の墓」の上に立った。
その表情は、今までに見たことがないくらいに、純真で、無邪気であった。
花穂と鞠絵が見守る中で、彼女は両の腕と、両の翼を広げる。
それが最後であった。
天使の墓が突如として光り輝いた。
その次の瞬間、墓からは空高くに向かって、巨大な光の柱が出現した。
柱は、天使の全身を包み込み、彼女の姿をその内に隠した。
パッと、彼女の羽根が周囲に散らばる。
白い羽根がゆっくりと舞い降りる中で、光の柱は徐々に消えていった。
光が消えると、もう天使の姿もそこにはなかった。
墓の周りには、無数の羽根が散らばっていた。
そして、墓の上には、花で作った冠だけが残された。
花穂は、自分でも驚くほどの声で泣いていた。
鞠絵もその場にうずくまり、両手で顔をおさえていた。
丘の周りには広大な森が広がっていた。
爽やかな風が、緑の香りを運んでいた。
空には雲一つなく、湖は透き通った水をたたえていた。
ここは「聖なる丘」。
天使たちが、最後の日々を過ごす場所である。
ひとしきり泣き終えた花穂は、手の上に三個の宝石を乗せ、眺める。
「結局、花穂は……、これを手に入れるのに、何もしなかったんだね」
彼女は深いため息をついた。
しかし、
「花穂ちゃん」
鞠絵はかぶりを振った。
「もしも、花穂ちゃんがあの子に優しく接していなかったら……、あの子はあの宝石を持ったまま消えてしまったかもしれませんよ」
「……そうかな？」
鞠絵は続ける。
「思えば花穂ちゃんは、宝石を手に入れた時に、様々な、大切な何かを示しましたよね」
「大切な……何か？」
「そう……。白雪ちゃんのお料理に付き合った時、花穂ちゃんは『忍耐』の心を示しました。衛ちゃんに身を任せたとき、『信頼』の心を示しました」
そして、鞠絵は優しく微笑んで、
「ここ、天使の墓で、花穂ちゃんは『慈愛』を示しました」
「花穂ちゃんは……、収集者である花穂ちゃんは、大いなる何かに試されていたのかもしれませんね」
石版の「女神像」のボタンを押した花穂は、この世界で最初に降り立った場所に転送された。
すなわち、花穂がパジャマ姿で眠っていた、森の中の小道である。
「やっと……、やっと三つ揃ったんだ……」
右手に三つの宝石を握りしめつつ、花穂は女神像のある方に向かって走ってゆく。
地を蹴る音が、軽やかに辺りへと響き渡る。
彼女の表情は、充実した気持ちで満ちていた。
あとは、宝石を女神像に差し出せばよい。そうすれば、女神像は星々に舞を捧げ、大空に輝きが戻るのだ。
途中で、底が見えないほどに深い谷の上にかかる、大きな石橋へと差し掛かった。
以前、恐怖に駆られた花穂は、ここを走って渡ろうとして転び、スリッパの片方を谷底に落としてしまった。
しかし、今の花穂は違う。彼女は、今や何も恐れてはいなかった。
それが起きたのは、その瞬間であった。
花穂は、地面にあった何かにつまづいた。
ハッと思い、あわててバランスをとろうとするが、上半身は慣性に任せて前へと倒れてしまう。
そして、花穂が転倒した瞬間、
チャリン
右手に持っていた宝石が、花穂の手を離れて、橋の上に落ちた。
勢いは止まらず、宝石たちは、橋の縁へと転がっていった。
そして、それらは橋から落ちて、深い奈落の底へ……。
「そんな……」
信じられない展開であった。
ほこらの前へ、とぼとぼと花穂は歩いてゆく。
放心した表情のまま、花穂はほこらの中にいる女神像の前に立った。
「花穂さん……」
女神像の声が聞こえると、
「女神さま……」
花穂の両目からは、堰を切ったように涙があふれ出た。
「う……、うわああああぁぁん！！！」
そして、花穂はその場にへたり込んだ。
涙が地面の上に染みを作り上げた。
「ごめんなさい！ ごめんなさい！ 花穂、宝石見つけたのに……、橋の上で転んじゃって……！！」
この世界でのあらゆる出来事が、花穂の頭の中に否応なくフラッシュバックする。
常春の森での奮闘。苦難に満ちた豪雨の砂漠の旅。聖なる丘での悲しい体験……。
それらの冒険が全て無駄になったという事実が、花穂の小さな両肩にかかる、途方もない重圧となった。
「花穂って、ドジっ子すぎるよお！ 花穂のせいで、お星さまが！！」
そして彼女は、そのまま顔を押さえて、シクシクとすすり泣いた。
その時、
「花穂さん……、まだ、終わってはいませんよ」
女神像が、優しく語りかける。
「私は踊れなくなってしまいましたが……、代わりに踊れる人が、他にいます」
「えっ？」
花穂は、泣くのを懸命にこらえて、聞いた。
「代わりって……、だれ？」
「それは……、花穂さん、あなたですよ」
「花穂……が？」
彼女は、自分の顔を静かに指差した。
「衣装なら、このほこらの中にあります。花穂さん自身がこれを来て、あの空に舞いを捧げるのです」
「でも……、花穂、どうやって踊ればいいのか、わからないよ」
「思うがままに舞えばよいのです。大切なのは、上手下手ではありません。あなたの気持ちです」
花穂はゆっくりと立ち上がり、夜空を見上げた。
星々は相変わらず暗く、今にも消えてしまいそうであった。
それぞれの星からは、「助けて」という声すら聞こえてくるようであった。
「お星さま……」
しばらくの後、花穂は、意を決した。
「わかった……、花穂、やってみる！」
パジャマを脱ぎ捨て、ほこらの中にあった衣装に花穂は着替える。
花穂は、女神像と同じような姿になった。
石像だとわからなかったが、衣装の生地は半透明で、少し恥ずかしかった。
そして、花穂は、ほこらの前にある、十分に広い場所に立った。
「花穂さん、自信を持つのです」
女神像の声が響き渡る。
「あなたは、この冒険の中で、たくさんの事を示すことができました。それらを忘れずに舞えば、あなたの気持ちは、必ず届くはずです」
それを聞いて、花穂は鞠絵の言葉を思い起こした。
「花穂ちゃんは『忍耐』の心を示しました。『信頼』の心を、『慈愛』の心を示しました」
「そうだね……。花穂なら、きっと……！」
しばしの沈黙。
花穂は、十分に気分を落ち着けた。
そして、
「フレーッ……」
右手右足が動く。
「フレーッ……」
左手左足が動じる。
「おっほしさまっ！！」
舞いの始まりであった。
両手を振り、左右に跳ぶ。
身を翻し、回転、回転、また回転。
バトンを回し、投げて受け止めるような仕草。
両の足は軽やかに宙を舞う。
一つ一つの動きの度に、衣装がひらひらと揺れる。
暗い星々は、徐々にだが、その明るさを増していった。
花穂の体も星々の光を受けて輝いてゆく。
彼女の肌が熱く紅潮する。
汗が飛び散る。
脈が上がり、息が荒くなる。
それらは、花穂の気分を高揚させると同時に、プレッシャーにもなった。
しかし、花穂はそれに耐え、なおも舞いを続ける。
「がんばーれ！ がんばーれ！ おっほしさまっ！！」
星の輝きは、やがて地面に、クッキリとした花穂の影を作った。
舞いはクライマックスへと達する。
回り、跳び、前後左右に激しく動き回る。
身にまとった衣装は、地面に複雑な影を織りなしてゆく。
花穂自身の気分も、高揚の極みに達しつつあった。
そして、
スタッ
最後に決めのポーズを取り、花穂の舞いは終わった。
その数秒後、星の輝きは急激に増してゆく。
「やった……」
それを見て、花穂は確信した。
百年に一度の儀式は成功した、と。
「よく頑張りました。花穂さん……」
花穂を讃える女神像の声。
「あなたの姿は、まさにこの世界にあらわれた小さな女神でした」
「花穂でも……、できるんだね。こんなにすごい事が……」
無数の星々の輝き。
宝石にも女神像にも頼らず、自分の力で蘇らせることができた。
花穂は、自分自身がたまらなく誇らしく思えた。
これほどまでの充足感は、未だかつて感じたことが無かった。
やがて、星の輝きは最高峰に達する。
その時、
「あっ！」
花穂は大空を見て、驚嘆の声を上げた。
それは、星々を包み込むようにしてあらわれた、巨大な球体であった。
「あ、あれって……」
空に輝いていた星々、それらは、実は星ではなかったのだ。
「そうです」
女神像が言う。
「あれは見てのとおり……、花穂さんの住む世界ですよ」
それは、白い雲に覆われた、青く輝く巨大な惑星であった。
今まで星だと思っていたものは、地球上に無数に存在する点だったのだ。
「それじゃ……、あの点は、いったい……」
花穂の疑問に、女神像は答える。
「言いましたよね。『彼らは生きている。彼らを元気づけるために、舞いを捧げるのだ』と」
花穂は納得いった。
なぜ、自分があの星々を助ける気になったのか。
きっと心のどこかで、あの星の正体に気付いていたのだ。
「花穂さん……、あなたのはたらきは、地球と、そこに生きる者たちに輝きをもたらしました」
「花穂が……、みんなを……」
その時、花穂の視界が徐々にぼやけていった。
「なんか……、花穂、ねむい」
急激な睡魔が花穂を襲う。
「元の世界に帰る時が近づいているのです」
「もとの……せかい……」
「本当にありがとうございます。自らが女神となった収集者がいた事を、決して忘れることはないでしょう」
「ま、待って！」
花穂は、睡魔を必死で振り払いつつ、聞いた。
「ここは……、一体どこなの？」
女神像は答える。
「もう、気付いているかもしれませんが……。ここは、地球から最も近い場所にある……」
しかし、その答えを最後まで聞かないうちに、花穂は睡魔に負けてしまった。
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