ちいさな女神が生まれた日
「常春の森」に続いて花穂がやってきたのは、「聖なる丘」であった。
花穂は、白雪の家で貰った靴を履いて、草花に囲まれた緩やかな坂道をのぼっている。
やがて、彼女は坂を登り終え、
「いい景色……」
丘の上から見える絶景に、しばしの間見とれた。
時折吹く夜の風と、それが運んでくる緑の香りが、わき上がる爽快感を更に加速させる。
手前に広がっているのは、かの女神像と出会った大森林である。その向こうには、ピンク色をした「常春の森」も見えた。
しかし、この後に行くであろう「豪雨の砂漠」は見えなかった。
一体どんな場所なんだろう……、名前からして、恐ろしそうな場所だけど……、と花穂は想像して、少し憂鬱になってしまった。
それからさらにしばらく歩くと、
「あれ……？」
手前に、石製の台形状のものが見えた。
近づいてみると、それは切り立った崖の上に建てられた小さな舞台であった。
いや、舞台というより、何か儀式で使う祭壇のように見える。
「ん？」
そして花穂は、舞台の周囲を見て、おかしな事に気付いた。
何やら白いものが、辺りに散らばっていたのだ。
見てみると、それは羽根であった。
白鳥のそれのような純白の羽根が、祭壇の周囲に、大量に散乱していたのである。
「ここに、鳥さんの群れでも来るのかな？」
花穂は辺りの空を見たが、そんな気配はなかった。
何気なく、その祭壇の上にのぼろうとする。
と、その時、後ろから男性の声がした。
「おい、こんな所で何をやっとるんだ！」
「きゃぁ！ ごめんなさい！！」
と、慌てて後ろを見ると、花穂の数メートル後方に、ローブを着て杖をついた人間がいた。
フードを頭まですっぽりかぶっているため、年齢のほどを顔から伺い知ることはできなかった。
「お嬢ちゃん、そこは『天使の墓』と呼ばれる場所だぞ」
「お、お墓！？」
花穂は驚いて、祭壇から飛び退いた。
男（と思われる人間）はワハハと笑って、
「まあ、『墓』と言っても、そこに天使が埋まっているわけではない」
「そ、そうなんだ……」
「要は、天使がそこで、最期の時を迎えるのだよ」
「さ、最期の……時！？」
花穂は再度驚いた。
「そうだ……。辺りに散らばっている羽根は、その時に天使がまき散らした羽根だよ」
花穂は思わず、以前友人の家で見せられたホラービデオの一シーンを連想した。
怪しげな男に囲まれた祭壇の上で、全身を縄で縛られたニワトリが、甲高い鳴き声をあげながらもがいている。
やがて、ニワトリの背中に牛刀が突き立てられる。同時に縄も切れて、ニワトリは断末魔の叫びを上げながら翼を動かし、周囲には無数の羽根が飛び散ってゆく。
そして、男の一人が血まみれのニワトリを上に掲げたところで、花穂が恐怖のあまり泣き出してしまい、ビデオ鑑賞会は一旦中断してしまったのである。
この祭壇の上で、そんな事が行われているのだろうか？
花穂は、映画のニワトリを天使に置き換えて想像する。
縄で縛られた天使に刃が突きつけられ、そして、天使は恐怖で顔を歪ませながら……、
「いやあああああ！！」
花穂は、両手で顔を押さえながら、その場にへたり込んでしまった。
そして、
「そ、それって、作り話でしょ！？ ここで天使さんのことを殺したりなんか……！」
と、涙目で見上げながら、うわずった声で聞いたが、
「……えっ？」
そこには、もう男の姿はなかった。
花穂は「天使の墓」を離れて、道を再び進んでいった。
「さっきの人に、宝石の場所聞いとけばよかったな……」
もちろん、彼がその事を知っていたかどうかは別問題だが。
木に囲まれた道を歩いてゆくと、やがて、小さな池のほとりに出た。
水面には夜空の星が映り、風が波紋を作るたびに、その影が揺れる。
「……ん？」
花穂は、池のそばにある椅子に誰かが腰掛けているのに気付いた。
麦わら帽子をかぶり、水色のワンピースを着た少女であった。
近づいて、遠巻きに顔を見る。
「あっ……鞠絵ちゃん」
その眼鏡をかけた少女は、花穂と仲のよい鞠絵であった。
鞠絵は病弱な少女で、普段は山奥のサナトリウムに入院している。ただし、それは元の世界に限っての話であり、この世界ではどうなのかわからない。
「あ……、花穂ちゃん。こんばんわ」
鞠絵は微笑を浮かべつつ、聞き覚えのある清楚な声で挨拶をした。
「鞠絵ちゃん、こんな所で、何やってるの？」
鞠絵は、夜空を見上げつつ答えた。
「空を……見ていたのです」
「ふぅん……」
「でも、もうすぐ、この夜空も見られなくなるみたいですね……」
鞠絵の顔にかげりが見える。
「夜の空から光が消えて、真っ暗闇に……」
「それなら、大丈夫」
「えっ？」
花穂は、自分の胸をポンと叩いた。
「花穂が宝石を集めれば、この空も元に戻るよ」
これまでの経緯を鞠絵に話し終えると、鞠絵は笑顔になった。
「そうなのですか……」
「で、この丘にも宝石があるらしいんだけど、どこにあるか知らない？」
「あ、それならば、赤い宝石が私の家にありますよ」
「ほんと！？」
これまた、予想外の展開であった。
「その宝石、ほしいんだけど……、いいかな？」
「ええ。この空が戻るためなら、喜んで差し上げますよ」
「やったぁ」
両手をあげて、花穂は喜んだ。
最後の一個も、このぐらい簡単にいけばいいな、と思いつつ。
花穂は、鞠絵の住んでいる家に案内された。
家というより、「屋敷」という表現の方が相応しいだろうか。
大きな塀で囲まれた広い敷地の中央には、大きな洋館がそびえ立っていた。館を取り囲む庭には美しい花が咲き乱れ、隅にある噴水は、輝く放物線を宙に描き続けていた。
鞠絵と共に館に向かって歩きながら、花穂は聞いた。
「きれいな庭だね……。鞠絵ちゃんが全部手入れしてるの？」
「いえ、不思議な話なのですが……」
鞠絵は歩きながら、庭中を見回す。
「手入れを何一つとしてせずとも、この庭はこれだけの美しさを保っているのです」
「そうなんだ……。なんでかな？」
「おそらく、この丘はこの世界において、特別な場所だからだと思います」
特別な場所、と言われても、花穂にはよくわからなかった。
そんな事を言ったら、この世界の何もかもが花穂にとっては特別であるから。
やがて、花穂は館の中に通された。
玄関を抜けるとそこは広いロビーになっていて、高い天井には大きなシャンデリアが下がり、床には絨毯が敷き詰められていた。
木製の壁面や柱は適度な光沢を放ち、痛んでいるような様子は全くない。
「さあ、こちらです」
二人は、ロビーの一角にあるドアをくぐり、一つの部屋に入った。
隅においてあるベッドに、整頓された木製の机。どうやら、鞠絵の私室のようである。
花穂が部屋の入り口近くで待っている間、鞠絵は机の引き出しを順番に開け、中を見る。
しかしその後、鞠絵は花穂の方に向き直り、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません……、宝石をお渡しするのに、もう少し時間がかかるかもしれません」
次に二人が入ったのは、二階にある部屋であった。
ベッドがあり、机があるという点では鞠絵の部屋と同じだったが、床には子供向けのオモチャが散乱していた。
「あの子ったら、またこんなに散らかして……」
ため息混じりで言いながら、鞠絵はオモチャを片づける。
「ここ、鞠絵ちゃん一人で住んでるんじゃなかったの？」
「いえ、今は、この部屋に住んでいる子と一緒ですよ」
ふと、花穂は、ベッドの上に花の束が置いてあるのに気付いた。
「これは……」
「あの子が摘んできたのでしょう」
花穂は、それを手にとって見る。
「この花……、どこかで見たことのあるような……」
その時、部屋の外の廊下から、バタバタという足音が聞こえてきた。
ドアが開き、小さな女の子が中に入ってきた。
その姿を見て、花穂は「あっ」と声を上げる。
それは、白い衣を身にまとい、背中に羽根を生やした少女――前に会った「天使」であった。
あの時はよくわからなかったが、天使の身長は、花穂よりも頭一つ分ほど小さく、思っていたよりも幼くて、おてんばそうな顔をしていた。
「天使さん、こんにちは」
花穂は、天使に挨拶をした。
「あら、花穂ちゃん、この子のこと知ってるんですか？」
「うん、森の中で会ったの」
しかし天使は、気に入らなそうな目で花穂を見つめたまま、無言でいた。
なぜそんな反応をするのか……、花穂は気後れしてしまったが、すぐに天使が怒っている理由に気付いた。
「あ……、ごめんね。これ、天使さんのだもんね」
花穂は、慌てて花束を天使に差し出す。
受け取った天使は、少しだけ表情を緩めた。
鞠絵は、天使の左右の手に目を向ける。
「あっ、やっぱりあなたが宝石を持ち出してたのね」
天使は、右手に赤い宝石を握っていた。
前に手に入れた緑の宝石と同じ大きさ、形である。
「その宝石は、花穂ちゃんに渡さなくちゃならないから……、悪いけれど、私に返してくれるかしら」
鞠絵が天使に言うが、彼女は不満げな顔のまま、渡そうとしない。
鞠絵は再度天使に頼む。
「お願い、我が儘を言わないで。その宝石は大切なものなんだから……」
天使は言うことを聞かず、宝石と花束を持ったまま窓に歩み寄って、
「あ、待って！」
鞠絵が制止するのも聞かずに、窓を開け、そこから空に飛び立っていってしまった。
部屋の中には、数枚の羽根が残った。
鞠絵は「……ふぅ」とため息をついて、謝った。
「ごめんなさいね、花穂ちゃん。あの子が戻ってくるまで待っていてください」
「うん、いいよ。いつごろ戻ってくるかな？」
「たぶん、食事時にでもなれば……」
食事の用意ができるまで、花穂は居間で、ソファに座ってくつろいでいた。
古めかしいレコードプレイヤーがイージーリスニングを奏でる中、窓から入る森の風が心地よかった。
やがて、食事の支度を終えた鞠絵が戻ってくる。
「確か、花穂ちゃんは、次に『豪雨の砂漠』に行くのでしたっけ？」
「うん。なんか、ちょっと恐そうな場所だけど」
「あそこは……、文字通り、四六時中空を雨雲が多い、激しい雨が降り続けているという、不思議な砂漠です」
雨が降り続ける砂漠……、花穂はそんな話を、聞いたことがあるような気がした。
しかし、どこで聞いたのか、思い出せない。
「そうだ。これを持って行くといいでしょう」
鞠絵は、部屋の隅に置いてあったコウモリ傘を差しだした。
「大きめの傘ですから、雨もかなり防ぐことができると思います」
「いいの？ 貰っちゃって」
「ええ、この辺では雨はほとんど降りませんから、少しでも役に立てた方が、持ち主も喜ぶと思います」
「持ち主って……、誰かが忘れていったの？」
そう聞くと、鞠絵の表情が暗くなる。
「ええ……。前にこの家にいた天使の忘れ物です」
「え？ あの子の他にも、天使さんがいたの？」
「はい。少し前まで、この家には天使がたくさんいたのですが……」
「へえ……」
花穂は、さっき会った天使の姿を思い浮かべた。
「やっぱり、みんなあんなに可愛い子だったの？」
「ええ……」
鞠絵は目をつぶって、穏やかな表情で言う。
「男の子も女の子も、元気な子も大人しい子もいました……」
彼女はドアを開けて、ロビーを眺める。
「このロビーの中を、天使たちが飛んだり走り回ったりしていました。外の庭で、お花で遊んでいる子もいました」
その口調は、どこか淋しげであった。
花穂は、鞠絵の顔をそっと見る。
その目元には、少しだけ涙がにじみ出ていた。
その時、玄関のドアが開いた。
そして、先刻の小さな天使が入ってくる。
「おかえりなさい。ご飯の用意ができてるわよ」
と言う鞠絵をよそに、天使は花穂の元に歩み寄った。
そして天使は、あるものを花穂に見せた。
「えっ？ それ……」
それは、花で作った冠であった。
「花穂にくれるの？」
そう聞くと、天使はコクリと頷き、座っている花穂の頭に冠を乗せた。
「わあ……、ありがとうね」
花穂が笑顔で礼を言う。
天使も笑顔を浮かべた。
そんな二人を、鞠絵は微笑ましく見守っていた。
しかし、その微笑みは、どことなく憂いを含んでいた。
食卓を囲んで、三人で鞠絵の作った料理を食べる。
しかし、花穂はほとんど料理に手をつけなかった。
「花穂ちゃん……、お口に会いませんでしたか？」
鞠絵に聞かれて、花穂は慌てて否定する。
「う、ううん。花穂、さっき白雪ちゃんの家で、ケーキ食べ過ぎちゃったんだよ。だから、ご飯入らないの……」
その時、「白雪」と聞いて、天使の顔がパッと明るくなった。
「この子は……、白雪ちゃんと、とっても仲がいいんですよ。さっきも、どうやら白雪ちゃんの家まで遊びに行ったみたいですし」
そう鞠絵が説明した直後に、天使は少しガッカリした表情になる。
「あら……、どうしたの？」
鞠絵が聞くと、天使は鞠絵に耳打ちをした。その言葉を、鞠絵は花穂に伝える。
「どうやら、本当なら白雪ちゃんは、さっき、この子のために編み出したとっておきのケーキをくれる筈だったらしいのですが……、どうも最後にミスをして、作るのに失敗したみたいなんです」
「それって、ズンドコナッツケーキ？」
鞠絵は、花穂から聞いた白雪宅での話を思い出し、「ふふっ」と吹き出した。
「そう、それです。次に来るときにこそ、必ず完成したケーキを渡すそうですから、その時が楽しみですね」
天使は再び笑顔になり、コクコクと頷いた。
食事が終わり、天使は自分の部屋のベッドで眠ってしまった。
その枕元には、赤い宝石が置いてあった。
「かわいいなあ……」
花穂はベッドのそばで、すやすやと眠る無邪気な寝顔を見守っている。
彼女は、まだ宝石には触れていない。ゆえに、「活性化」もまだであった。
「花穂ちゃん……」
鞠絵が部屋に入ってきた。
「ん、なあに？」
「宝石についてなのですが……」
鞠絵は、すまなさそうな表情で続ける。
「これだけ待たせて本当に申し訳ないのですが……、もう少しだけ、お渡しするのを待っては頂けないでしょうか？」
「えっ？ ……どうして？」
鞠絵は天使の枕元に近づいて、
「見てのとおり、この子は宝石を、宝物のように大切にしています。いずれ渡さなくてはならないのはわかっていますが、せめて、あと少しの間だけ、この子に持たせてあげたいのです」
「うーん……」
花穂は困惑する。
「お願いします！」
深々と頭を下げる鞠絵。
「『豪雨の砂漠』で最後の宝石を手に入れたら、もう一度ここに来てください。その時にこそ、きっと渡しますから！」
その表情は真剣で、そして、どこか切羽詰まっていた。
「うん、いいよ」
その頼みを、花穂は笑顔で承諾する。
「ほ、本当ですか！？」
「だって、宝石は三個なくちゃ意味がないんだし、それに……」
花穂は天使の方に再び顔を向ける。
「花穂、この子に嫌な思いなんかさせたくないしね」
「本当に……、ありがとうございます……」
鞠絵は、最大級の感謝の表情で、もう一度頭を下げた。
鞠絵から受け取ったコウモリ傘を手に、花穂は鞠絵の家を後にした。
ふと花穂は、白雪の言葉を思い出した。
「このケーキは、ある人にプレゼントするつもりでいるんですけど、もうすぐでその人には会えなくなりますの……」
そのケーキ、ズンドコナッツケーキの事を、鞠絵は「天使のために編み出したとっておきのケーキ」と言っていた。
白雪の言っていた「その人」とは天使の事なのだろうか？ そうだとしたら、「もうすぐで会えなくなる」とは……？
花穂は嫌な予感がした。
「もしかして……」
鞠絵の屋敷の方に振り向く。
「あの子も、このお屋敷からいなくなっちゃうのかな？」
ザアアァァッ！
石版のボタンを押し、転送が完了した瞬間、花穂の頭上から、猛烈な勢いで水滴が落下してきた。
「きゃあん！」
ここは「豪雨の砂漠」。
どこまでも広がる砂漠と、どこまでも広がる雨雲、そして、どこまでも降り続ける豪雨が支配する魔境である。
「か、傘を……」
花穂は、急いで白雪からもらったコウモリ傘を開いた。
しかし、開いた次の瞬間、
「キーーーッ！！」
「きゃあ！」
コウモリ傘は、巨大な黒いコウモリに変身してしまった。
バタバタと羽音を鳴らし、花穂の周りを飛び回るコウモリ。
「やめて！ やめてぇ！」
そして、コウモリは花穂の持っていた石版を掴んだ。
「あっ、それは！」
抵抗する暇もなく、コウモリは石版を奪い、そのまま、飛んでいってしまった。
「ま、待って！ それが無かったら、花穂、ここから出られない……！」
雨に濡れながら、必死で追いかける花穂。
だが、花穂の足は濡れた砂にめり込み、思うように走れない。
すぐにコウモリの姿は、降り落ちる無数の雨粒の向こうに消えていった。
「そ……、そんなのって……、無いよ……」
後には、頼みの傘も石版も失ってしまった、無力な少女が残された。
前後左右から降りかかる雨水は、彼女の服や髪や肌を情け容赦なく濡らし、その瞳から流れる涙も、次の瞬間には一瞬にして洗い流されてしまった。
「はぁ……、はぁ……」
どうすればいいのか。
皆目見当もつかずに、とにかく歩き回る花穂。
ずぶ濡れになったパジャマが体にへばりつく。
靴の中に入った雨水がグチュグチュと嫌な音をたてている。
「どうして……、こんな事になっちゃったんだろ……」
そして、どの方向を見ても、湿った砂漠が地平線の果てまで続いている。
ゴールはどこにも見えない。
いや、どの方向に行けばゴールがあるのか、わからない。
それ以前に、本当にゴールがあるのかどうかすらも、わからなかったのだ。
――前に進むことも、後ろに下がることもできない。
前に進んでいるつもりでも、それはただその場で足踏みをしているだけであり、
後ろに下がろうとも、そもそも下がるべき「後ろ」が失われている。
そういう状態のことを、人は「絶望」と呼んでいる――
砂漠は決して平坦な場所ではない。上り坂と下り坂の連続体である。
「あの上り坂を乗り越えれば、きっと何かが見える」と、淡い期待を抱きながら、花穂は崩れそうになる足元を踏みしめて、上り坂をのぼってゆく。
しかし、頂上までのぼっても、そこからは相変わらず、砂漠と雨雲と雨粒だけしか見えない。
その度に、花穂は力無くうなだれる。
期待など抱いてしまった事を後悔しながら。
――「期待」とは、時に残酷である。
絶望の暗闇の中、人は自らの手で明かりを灯そうとする。
期待という名の灯し火の中で、無理にでも自らを安心させようとする。
しかし、その灯し火は脆く、ほんの少し風が吹いただけで、あっけなく消え去ってしまう。
灯し火が明るければ明るいほど、その後に戻ってくる暗闇の恐怖は大きい――
ついに花穂は疲れ果て、その場に座り込んでしまった。
冷えた雨水は、徐々に、しかし確実に花穂の体温を奪ってゆく。
これ以上体を冷やさないために、花穂は尻をつき、膝をかかえてうずくまった。
「誰か……、誰かたすけて……」
嗚咽を漏らす花穂。
「お兄ちゃま……、たすけて……」
花穂の頭の中を、数ヶ月前の出来事がよぎる。
橋の上で転倒し、プレゼントを川底に放り投げてしまった、雨の日。
あの時も花穂は、豪雨の中でひざまずき、ただ一人で泣きわめいていた。
そんな花穂のことを、兄は決して見捨てなかった。
彼は、豪雨をくぐり抜けて花穂の元にやってきて、その手をとり、優しく傘を差し出した。
しかし、その兄も、こんな砂漠の真ん中に来ることはない。
「衛ちゃん……、千影ちゃん……、白雪ちゃん……、鞠絵ちゃん……」
助けを呼ぶ声が、空しく響く。
そこは、まさに出口のない牢獄。壁も天井もない、広い広い牢獄の果てであった。
――目の前に突きつけられた絶望。
そこから逃れるために、人々は必死に抗おうとする。
自分を欺き、自分に強がり、昨日を忘れて、明日から目を背け……。
やがて、それらの全てが無駄である事に気付き、それでも、なお抗おうとする――
「あは……、あはははは……」
泣くだけ泣くと、今度は笑いがこみ上げてきた。
「誰も花穂のこと助けてくれないんだ。花穂、本当に見捨てられちゃったんだ……」
彼女は、ポケットの中から緑の宝石を取り出し、悲しげな顔で見つめながらつぶやいた。
「花穂ってば、一人じゃ何もできないんだね……」
自分はここまで無力だったのか？
思えば、一個目、二個目の宝石が見つかったのは、ほんの幸運でしかなかった。
白雪が見つけたから、鞠絵が持っていたから……。
収集者としての使命は、自分には荷が重すぎたのだろうか？
……そんな思いが、頭の中を、幾度もよぎった。
――だが、絶望の中であろうとも、決して失われる事のない、確かなものが存在する。
それを手放してはならない。
それさえあれば、絶望に抗わず、身を任せてしまっても、何も恐いことはない。
そうすれば、やがて気付くだろう。
目の前の「絶望」は、絶望などではなかったという事に――
「……ちゃん……」
「えっ！？」
その時、雨の音の向こうから、かすかに声がした。
「ど、どこ！？ 誰かいるの？」
頭を上げ、周囲を見渡す花穂。
「……か……ちゃん！」
さらに一回り大きな声がした。
それは、花穂のよく知っている声であった。
花穂のすぐ近くにいる、頼りになる少年の……いや、少女の声。
「花穂ちゃーーん！！」
もう一回聞こえた声で、花穂はその主が誰であるのか、確信した。
彼女は立ち上がり、その方角に顔を向け、自らの声を返した。
「衛ちゃん！！」
濡れた砂上を駆ける音と共に、雨の向こうから、ぼやけた人影が近づいてくる。
その人影は、徐々にハッキリしたものになっていった。
「衛ちゃん……」
やがて、衛の顔が完全に明らかになった。
「来てくれたんだね……」
彼女は透明なビニール傘をさし、それとは別に、もう一本の傘を持っていた。
そして、衛は、花穂の手前で立ち止まった。
ハァハァと息を切らせ、傘を花穂に差し出す。
「花穂ちゃん……、はい、花穂ちゃんの傘……」
衛の姿が、またぼやけて見えた。
しかし、それは雨のせいではない。
沸き立つ安堵感と喜びに、花穂の全身がうち震えた。
衛の声、顔、息づかい、全てが花穂のよく知るものであった。
当たり前のように存在していた全てが、花穂に安堵をもたらしていた。
「衛ちゃん……、ありがとう」
花穂は、衛の差し出した傘を受け取り、ゆっくりと差した。
ようやく、雨の当たらない場所が花穂の立っている所にできた。
「花穂ちゃん、ボク、ずっとずっと待ってたんだよ。花穂ちゃんがこの砂漠を通るの……」
その時、二つの傘が頭上で重なった。
衛が、花穂のことを、そっと抱き締めたのだ。
「ま、衛ちゃん！？」
困惑する花穂に、衛は優しく言う。
「寒かったでしょ、花穂ちゃん？ だから、ボクが暖めてあげる」
花穂は驚いていた。
衛に抱き締められたこともそうだが、それ以上に、衛という人間の持つ大きな信頼感が、花穂のことを大いに驚かしめたのだ。
「衛ちゃん……、あったかい……。まるで、お兄ちゃまみたい」
「花穂ちゃんも、とってもあったかいよ」
「花穂の体、こんなに冷たくなっちゃったのに？」
そんな花穂に、衛は微笑みながら答える。
「だって、大好きな人がそばにいれば……、それだけで温かいもの」
これまでのいきさつを聞いた衛は、二つ返事で宝石の探索を手伝うことにした。
「とりあえず、休める場所を探そう」
衛の提案どおり、二人は傘をさしながら、とりあえず、できるだけ高い場所にのぼった。
ここからならば、砂漠のかなり遠方まで見渡すことが出来るからである。
「何も見えないよ〜」
花穂の目には、相変わらず延々と広がる砂漠ばかりが映った。
しかし、衛は、周囲の光景を、注意深く、じっくりと見定めていた。
「花穂ちゃん、ボクの目がよく見えるってのは知ってたっけ？」
「あっ、確か……」
花穂は、衛が毎年、身体測定のたびに、視力検査の結果を自慢するのを思い出した。
「両目の視力が、小学一年の時からずっと２．０なんだっけ？」
「そう。だから、しっかりと見ていけば、何か見つかるかもしれない」
観察を続ける衛。
衛が何かを見つけるのを待ち続ける花穂。
そして、しばらくの観察の後、衛は口を開いた。
「あっ、あれ！」
彼女はそう言って、とある方角を指差す。
「な、何？ 何かみつかったの？」
「あそこに、緑色のものが見えるんだ！」
衛は、花穂に向き直って笑顔を見せ、
「さあ、行ってみようよ！」
と、花穂の腕をつかんで、早足で歩き始めた。
「あっ、衛ちゃん、待って！」
その場所までの距離はかなりのものであった。
道中、後ろから前から吹き荒れる雨は、傘だけでは防ぎきれず、花穂の体に幾度もかかっていった。
しかし、花穂は耐えることができた。
自分は孤独ではない。信頼できる人がそばにいるから……。
やがて、衛の言っていた「緑色のもの」に近づくにつれ、その姿は花穂の目にも徐々に明らかになっていった。
オアシスだろうか？ 緑色をした土地の上に、同じく緑色をした木々らしきものが立ち並んでいる。
しかし、
「あっ」
ある場所で、二人は同時に声を出し、立ち止まった。
「そんな……、どうしよう」
目の前の有様を見て、花穂は思わず弱音を吐く。
「大丈夫だよ」
「だって、花穂泳げないもん……」
「大丈夫だってば」
そこには大きな川が流れ、花穂たちの行く手を阻んでいた。
長い間降り続けた雨は、砂漠の上に川を作ったのだ。
「でも……」
「花穂ちゃん」
衛は川縁へと歩き、そして、傘をたたんで、中腰になりながら言った。
「ボクが花穂ちゃんをおんぶして泳いでいくよ」
「衛ちゃん……」
衛の背後にまで花穂は移動する。
だが、
「……どうしたの？ 花穂ちゃん」
花穂は、衛の背中と川とを見比べて、躊躇してしまう。
「ほんとに、大丈夫？ 花穂、重いよ？」
「大丈夫！」
衛は花穂の顔をしっかり見て、強い表情で言い切る。
「ボクに任せて！」
不安は取り除かれる。
そして、花穂は、意を決した。
「わかったよ……、衛ちゃん、お願い！」
花穂を背に負って、幅百メートルはあろう川を泳いでゆく衛。
花穂は緑の宝石をしっかり握りしめ、二人分の傘を背に縛り付けている。
花穂と衛の間の体格差は、ほとんど無い。衛の肩から背、腰へのラインは、女の子そのものであった。
しかし、今の花穂は、衛の背中を、実際のそれよりもずっと大きく感じた。
横から激しい水流が襲いかかり、水しぶきを上げるが、花穂は少しも恐くなかった。
「衛ちゃん……、頑張って！」
衛は向こう岸まで泳ぎ切った。
二人は、再び目的の場所に向かってゆく。
そして、ついに、衛は歓喜の声を上げた。
「到着ぅ！！」
そこは、オアシスであった。
緑色の草が辺りを覆い、小さな泉の周りには、ヤシの木が何本も生えていた。
不思議なことに、まるで切り抜いたかのように、オアシスの上空だけ雨雲が晴れ、そこから平穏な夜空が覗いていた。
「やったぁ……」
安心した花穂は、その場に腰をおろして、
「ここで一休みしたら、ゆっくりと宝石を探しに行けるね」
しかし、衛は茂みの中を指差して、
「いや、その必要はないよ」
「えっ？」
彼女が指差している方向には、青く光るものがあった。
茂みをかき分け近づいてみると、大理石でできた台座の上に、青色をした円形の宝石が輝いていた。
「わぁ……！」
花穂は台座の前に立ち、ゆっくりと、宝石をその手にとった。
その瞬間、緑の宝石の時と同様に、凄まじい勢いで青の光が放たれた。
そして、辺りに例の声が響き渡る。
『信頼』
「ほんとに……、ほんとによかった……」
緑と青、二つの宝石を見て、花穂の目から思わず涙がこぼれる。
「よかったね、花穂ちゃん。あとは、鞠絵ちゃんから赤の宝石をもらえば、三つの宝石が全て揃うよ」
「うん……」
花穂は涙をぬぐい、雲の隙間から漏れる星々を見上げながら、
「あとちょっとだから……、待っててね、お星さま」
とつぶやく。
が、その時、
「あーっ！」
花穂はある事を思い出した。
「何？」
「石版！」
肝心なものが失われたままであった。コウモリ傘に持ち去られた石版がなければ、どのみち花穂はこの砂漠から脱出できないのだ。
「花穂、どうしよう？」
「こうなったら、思い切ってこの砂漠を歩いて突っ切る？」
「そんな……、花穂、衛ちゃんみたいな元気ないもん……」
「……ん？」
その時、衛は、近くのヤシの木の下に、何やら黒いものが落ちているのに気付いた。
見ると、それは折り畳まれたコウモリ傘であった。
「あっ、コウモリさん」
そのそばには、奪われた石版が落ちていた。
近づき、拾おうとすると、
「キーーーッ！」
「きゃあ！」
突如としてコウモリ傘は目を覚まし、身を広げ、甲高い声で花穂を威嚇する。
そして、石版を鷲掴みにし、身を翻してどこかに飛び去ろうとした。
が、
ガン！
「あっ」
「あっ」
幅の広いコウモリ傘は、ヤシの木の幹に体をぶつけてしまう。
それから、追加コンボ。
ガン！「あっ」「あっ」
上から落ちてきたヤシの実に当たって、コウモリ傘はのびてしまった。
コウモリ傘が落とした石版を、花穂は急いで拾う。
「これで一安心だね、花穂ちゃん」
「うん！」
「……それで、衛ちゃんはこれからどうするの？」
「ボクは……、しばらくはここにいる事になるんだろうね」
「花穂は、もうここには来ないのに？」
「うん。だって、他に行く場所知らないしね……」
「そっか……」
「でも、大丈夫。きっと、もうすぐでボクはここにいる必要がなくなるよ」
「えっ、どういうこと？」
「さあ……、よくわからないけど、なんかそんな気がするんだ」
「そう……。それじゃ、花穂は行くね。衛ちゃん、ほんとに、ほんとにありがとう」
花穂は、石版の「聖なる丘」のボタンを押した。
「あっ、花穂ちゃん！」
花穂の視界が暗転する。同時に、耳に入る衛の声も、急速に小さくなっていった。
「ボク……、花穂ちゃんのこと、大す……」
その台詞は、最後まで聞き取れなかった。
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