ちいさな女神が生まれた日
闇の彼方から光が近づいてくる。
耳には小鳥の鳴き声が聞こえ、体には確かな暖かさが戻ってくる。
目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋のベッドの上であった。
一度は布団から出るが、この時期の朝は寒く、花穂は朦朧とした意識の中、再び布団の中に潜り込んでしまった。
しかし、意識がだんだんハッキリしてくると、花穂はやがて、今日が何の日なのかを思い出した。
「そうだ……、今日は陸上大会……」
上半身を起こし、目覚まし時計を見た。
朝の六時半過ぎ。セットしておいた時間よりも、だいぶ早い。
床についたのが昨晩の十時だったので、就寝時間はおよそ八時間半。
しかし、花穂は、眠ってから今に至るまで、まるで数日が経ったような錯覚を覚えていた。
これも、先ほどまで見ていた夢のせいであった。
何しろ、花穂は夢の中で数日に及ぶ時間を体験し、しかも、それらの内容のほとんどを覚えていたのである。
そして、花穂の右手人差し指には、奇妙な紋章のついた指輪がはまっていた。
朝食を終えた花穂は、チアの衣装が入ったスポーツバッグを持ち、家を出た。
この日は天気が良かった。昨日と同様、雲一つない青空だ。
途中、花穂は駅前ショッピングモールの中を通る。
開いている店はほとんどなく、紅葉した街路樹が並ぶモールは、人っ子一人いなかった。
……いや、一人だけいた。
「あっ」
その人物――花穂に長い冒険の旅をさせた張本人――は、銀杏の木の下のベンチに腰掛け、空を眺めていた。
花穂は、その人物の名を呼びながら駆け寄った。
「千影ちゃん！」
千影は、無表情なまま、花穂の方を向いた。
「やあ……、花穂くん。おはよう」
「おはよー」
花穂は元気に挨拶したあと、指輪を外して千影に返した。
「その指輪……、試してみたかい？」
「うん！」
花穂は、元気良く頷いて、
「千影ちゃんの言った通りだったよ。花穂、今日のチアに、ほんとに自信がついてきたよ！」
「ふふっ……」
微笑を浮かべつつ、千影は受け取った指輪を、懐にしまった。
「千影ちゃん、どうもありがとうね。……でも、ほんとに不思議な指輪だね。あんな、すごくリアルな夢を見るなんて」
「夢、か……」
千影は、微笑したまま空を向いて、
「もしも、あれが夢でなかったとしたら、どうする？」
「えっ？」
「……この世界は、最近元気がない。人間たちの行いや心が、ことごとく負のベクトルに向かって流れている」
千影は、花穂の方に向き直った。
「それが、今日を境に少しずつ変わってゆくとしたら……、どう思う？」
「それって……どういうこと？」
「月の影響力は、確実に増した。……とある小さな女神さまのおかげでね」
その時、
「おーい、花穂ちゃーん！」
活発な声が後ろから響き渡る。
振り向くと、衛が手を振って、こっちに向かって走っていた。
「衛ちゃん、おはよー」
挨拶を返しながら、花穂は昨夜の夢を思い出す。
豪雨の砂漠の真ん中、一人濡れてたたずんでいた花穂のことを、衛は助けに来た。
孤独の中、見慣れた衛の顔を見たあの時、花穂はこの上ない程の安堵を感じていた。
「ボクも、一緒に白並木に行くよ」
衛が花穂たちの前で立ち止まった時、花穂は夢の中での事を思い起こし、思わず口元が緩んだ。
「うん、じゃあ、一緒にいこ！」
花穂は千影の方に向き直って、
「それじゃ、花穂、チア頑張ってくるね」
「ああ……。頑張ってくるといい」
「じゃ、行ってきまーす」
そして、花穂は衛と一緒に、白並木学園に向かってモール内を歩いていった。
「衛ちゃんも、お兄ちゃまのことを応援するの？」
「あにぃのことも応援するけど……、それより、ボクは花穂ちゃんのことを応援したいな」
「えへへ、ありがと。……でも、変なの。応援してる花穂のことを応援するなんて」
「だって……、ボク、あにぃには負けたくないもん」
「えっ？ お兄ちゃまと、何か勝負でもするの？」
そんな花穂を見て、衛は「ははっ」と笑い、
「何でもないよ」
「？」
そんな会話をしながら、花穂たちはハンバーガーショップの入り口の前を通った。
そこに一個の空き缶が落ちているのに、花穂は気付かなかった。
そして、花穂は、
「……きゃぁ！」
その空き缶を、思い切り踏んでしまった。
花穂の上半身が後ろに倒れる。
が、
「おっと！」
衛が素早く両腕で花穂の体を支えたおかげで、転ばずに済んだ。
「衛ちゃん、ありがとう」
「へへっ、どういたしまして」
衛の体温の感じながら、花穂は再び夢のことを思い出す。
あの時、衛は花穂を抱き締め、冷え切った体を温めてくれた。
花穂は立ち直って、衛に聞いてみる。
「ねえ、衛ちゃん」
「なあに？」
「ゆうべも……、どしゃ降りの砂漠の夢、見た？」
「あ……、うん、また見ちゃったけど、どうして知ってるの？」
「その夢の中で、衛ちゃんは、待っている人に出会えた？」
その問いに、衛はしばらく黙った後、笑顔で答えた。
「うん……、会えたよ。その子の顔は覚えてないけど、ボク……、とってもうれしかった」
そして、二人は手をつないで、白並木学園へと歩いてゆく。
試合開始まで、あと二時間まで迫っていた。
――お兄ちゃまへ
花穂は、このメールを送り終わったら、すぐにチアに行きます。
これを読んでるのは、試合が終わった後だと思うけど……。
もしかしたら失敗しちゃうかもしれません。
バトン取れなかったり、みんなとズレちゃったりするかも……。
でもね、花穂は昨日、不思議な夢を見たの。
そしてそこで、大事なことを、いっぱいいっぱい知りました。
くじけない心。
誰かを信じる心。
みんなへの優しさ。
そして、そんな心を呼び起こすための、小さな勇気。
大切なことを忘れなければ、きっと気持ちは、お兄ちゃまに届くと思っています。
もし、この気持ちが届いたら……、その時は、応援している花穂の姿を、ずっとずっと覚えていてください。
そして、その姿を思い出すたびにお兄ちゃまが元気になるのなら、花穂はほんとに嬉しいです。
それじゃ、花穂、今から頑張ってきます。
お兄ちゃまもがんばってね！
花穂より
――――――――――――――――――
昼過ぎ。
ショッピングモールは、そろそろ人通りが多くなってきた。
「月よ……、いかなる者の心も照らし、見守る月よ……」
千影は、黄金色の落ち葉を頭や肩に何枚か乗せながら、銀杏の下のベンチに座り、空を見上げていた。
その目線の先には、白く浮かぶ月があった。
「今回も儀式を成功させてくれて……、罪深き地球の民を、これからも守るに値すると認めてくれて、ありがとう。そして、もう一つ、これは個人的な感謝だが……、盟友である花穂くんを収集者として差し出すという、私の我が儘を聞いてくれて、本当にありがとう」
千影は、頭や肩の落ち葉を払う。
「花穂くんが収集者としての使命を成し遂げられるよう、私は出来る限りのレールをひいておいた……。でも」
そして、千影は立ち上がり、花穂のいる白並木学園の方を向いて、
「いくら何でも、あんな所で転んでしまうとは……、私も予測できなかったよ。小さくて少しドジな女神さま……」
とつぶやきながら、微笑を浮かべた。
その時、
「……うん？」
気配を感じた千影は、とある方角の空を見る。
そこには、何も無かった。……少なくとも常人にとっては。
しかし、千影は、そこに「何か」を感じ取っていた。
「天使か……」
彼女は、その「何か」を目線で追う。
その目線は、やがて白い月へと達した。
「そうか……。この地球から月へと向かう天使が、また一人……」
相変わらず、空は夜のままであった。
しかし、今は以前とは少々異なる。
その夜空には、巨大な青い地球が浮かんでいたのだ。
そこから、ひとつの人影が降りてくる。
白いワンピースに、背中に生えた純白の翼……天使であった。
無邪気な表情を携えながら、大空を舞う天使。
砂漠の上空、濃い雨雲の層を突き抜け、やがて彼女は、ピンク色をした森の上空へとやってくる。
そして、彼女は、緑豊かな小高い丘へとたどり着く。
丘の一角には、大きな屋敷があった。
美しい花々で覆われた、今は誰も住んでいない屋敷。
彼女は高度を下げ、その屋敷へと降りたってゆく。
やがて自分が立つことになるであろう、小さな祭壇の方に目を向けながら。
その祭壇の中央には、ドライフラワーのようにカサカサになってしまった花の冠が、なぜか置かれていた。
「ちいさな女神が生まれた日」
完
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