ちいさな女神が生まれた日
――そこは、広い広い砂漠の上だった。
首を右や左に動かしてみたんだけれど、どっちを向いても地平線が横一直線に伸びてて、線から下は砂ばっかり。
その広い砂漠の真ん中で、ボクはひたすら立ちつくしていた。
一本の傘をさしながらね。それも、コンビニで売ってる透明なビニール傘。
……おかしな話だと思うでしょ？ 年中カラカラとした砂漠なのに、傘をさしてるなんて。
でもね、その砂漠は、乾いた場所じゃなかったんだよ。
砂漠じゅうの砂という砂は、まるで波打ち際みたいに湿っていた。
空には太陽はなくて、その代わり、真っ黒い雲が、空を一面に敷き詰めていた。
そして雲からは、もの凄い勢いで雨が降っていたんだ。
どしゃ降りの雨に襲われながら、ボクは「なんで自分は、こんな場所に立っているんだろう」って思ってた。
……でもね、本当は、その理由にはもう気付いていたのかもしれない。
ボクには、そこで待っている人がいたんだ。
ボクは自分の傘とは別に、もう一本の傘を持っていたんだよ――
天気のいい、秋の土曜の昼過ぎであった。
「そして、ボクは……」
ここは、駅前ショッピングモールの一角にあるハンバーガーショップの中。
店内は学校帰りの学生たちで賑わい、彼らは仲間と一緒に、あるいは一人で、それぞれ思い思いの時間を過ごしている。
その中に、肩までかかる髪にヘアバンドをつけている、十二歳ぐらいの少女がいた。
名前は花穂という。彼女は、同年代である十二歳前後の少年と一緒に、窓際のテーブルを挟んで語らっていた。
「そう、ふと……何気なく、砂を手にとってみたんだ」
「……」
いや、「語らっていた」というのには語弊があったかもしれない。
少年がハスキーな声で、ゆうべ見た奇妙な夢の内容を語っているのに対し、花穂の方は相づちも打たず、両手でケチャップたっぷりのホットドッグを持ちながら、ただ窓の外の光景をぼんやりと眺めているだけであった。
歩道の上に落ちていた空き缶が、風を受けて転がってゆくのが見えた。花穂は、その空き缶の行方を、何気なく目で追ってゆく。
「そしたら、湿ってた砂はとたんに乾いて、指の隙間から落ちていって……」
その時、何か生あたたかいものが落ちた。
が、花穂は、それに気付かない。
そして、缶がショップの入り口前で、誰かを待ち受けるようにピタリと止まったのを確認した瞬間、
「って、花穂ちゃん！」
「えっ？」
少年の指摘で、花穂は我に返る。
「胸！ 胸！」
「え？ えっ！？」
慌ててその部分見ると、そこはホットドッグからこぼれたケチャップで赤く汚れていた。
「あっ！ やあん！」
「じっとしててね、ボクが拭くから！」
「う、うん」
少年はバッグからティッシュを取りだし、その汚れを拭おうとした。
だが、ティッシュを持って花穂の胸に触れた時、
「あっ」
そのまま、触れた手が止まってしまう。
「どうしたの？ 衛ちゃん」
「いや……、な、なんでもないよ」
少年は……いや、少年のように見えるショートボブの少女、衛は、一瞬焦燥したものの、すぐに手を動かして、汚れを拭き取った。
「え、えーと……、ちょっと染みが残ってるけど、このぐらいなら大丈夫かな」
「うん、ありがとうね」
「あ、あはは。どういたしまして」
衛はそう言って、ドリンクを一気に飲み干し、気分を落ち着ける。
そして、衛が氷だけの残ったコップをテーブルの上に置くと同時に、花穂は溜息混じりで漏らした。
「花穂ってば……ほんとにドジっ子だよね」
花穂は、私立白並木学園初等部の六年生である。
この学校は初等から高等までの一貫教育を行っており、同校の高等部には彼女の兄が通っている。
名門校として知られているとはいえ、一般の公立校と雰囲気がそう違うわけでもない。そんな普通の学校に通う花穂もまた、ごくごく普通の小学六年生であり、同年代の他の子と同様、悩み多き年頃であった。
しかし、今の彼女の悩みは、普段に比べてもかなり大きかった。
スイミングスクールのレッスンがある衛は、先にハンバーガーショップを後にし、その数分後に、花穂もショップの出入り口からモールへと出た。
そこで花穂は、「あっ」と声を出す。
彼女がいる場所の数メートル先には一本の銀杏の木が立っていたが、その下にあるベンチに、見覚えのある少女が腰掛けていたのだ。
長い黒髪を持つ、花穂より数歳ほど年上に見える少女であった。
「千影ちゃん！」
彼女の名を呼び、駆け寄ろうとする。
だが、その次の瞬間、
「……きゃあ！」
足下に転がっていた空き缶を、思い切り踏んでしまった。
カランコロンという軽快な音の直後に、ズデン！という派手な効果音が鳴り響く。
歩道の上に突っ伏したまま硬直する花穂。やがて、
「ふ……ふええぇん」
彼女は半べそをかきながら上半身を起こした。
頭を軽く振って、目の前をぐるぐると回っている星マークを振り払う。
「花穂って……、なんでドジしちゃうんだろ……」
周りをみると、放り投げたバッグの中身が散乱している。
「あーん、たいへん」
立ち上がっていそいそとバッグを拾い、散らばった教科書やらノートやらを中にしまう。
一通り中身を回収して一安心した、その瞬間、
カランコロン
「きゃあん！！」
花穂は、また同じ空き缶を踏んで転倒してしまう。
そして、例のごとくバッグの中身をぶちまけてしまうのであった。
「あーーーん……」
その時、誰かが花穂に手を差し伸べた。
「花穂くん……大丈夫かい？」
先ほどまでベンチに座っていた少女、千影だった。
「千影ちゃん……」
花穂は千影の手をとって立ち上がる。
「ありがとうね」
「いや、礼には及ばない」
穏やかに言いながら、千影は無表情なまま空き缶を屑篭に放り込み、バッグの中身の回収作業を手伝った。
回収を終えると、千影は、
「花穂くん、今から用事はあるかい？」
「え？ う、ううん。何もないけど」
「それなら……」
千影は、先ほどまで座っていたベンチを差した。
「少しあそこで、話でもしないか？」
千影は、花穂と親しい人間の中でも、特に奇異な個性を持った人間だ。
彼女は物静かで感情をなかなか表に出さないが、時にミステリアスでオカルトじみたセリフを口にする。
常識で考えれば「戯れ言」と流されてしまうようなその言葉も、不思議なことに、彼女が言えば、異様な説得力をもって相手の心に伝わってしまう。
千影とはそういう女である。
千影が銀杏の下のベンチに腰掛け、花穂もその側に座る。
「さて、花穂くん……」
千影は花穂の方を向き、
「何やら悩みを抱いていると見たが……、気のせいかな？」
そう言われて、花穂の体がピクリと動いた。
「どうして、そんなこと知って……」
「衛くんの言葉もまるで上の空だったみたいだが」
千影が店内にいたを意外に感じた。それらしき姿を見た記憶はないのだが。
「千影ちゃん、あのお店にいたの？」
「いや、私はずっとここにいたよ……、私のアストラル体はあそこにいたが」
「あす……とら？」
花穂が千影の摩訶不思議な答えにどう反応すればよいか考え込んでいるうちに、千影は言葉を継いでゆく。
「とりあえず……、こんな時はあれでも見て、気分を落ちつかせるといい」
千影は無表情な顔を空に向け、自分の視線の先を指差した。
「あれって……、あの、白いの？」
「そうだ……」
そこには、あたかも焚き火の煙のように青空に溶け込んでしまいそうな、白くうっすらとした月があった。
「千影ちゃん、お昼にお月見するの？」
「……ああ。強い日の光にかき消されそうになりながらも、なおその存在を我々に伝えようとする……、その健気さが、とても美しい」
ここで、千影ははじめて微笑を浮かべて、
「そして、月はいかなる者の心も照らし、見守ってくれる。日の光の下では生きられない動物や、魔物たちも、月の光の下でなら生きられるんだ」
「どんな人の……、心でも？」
「そう。私のことも、兄くんのことも、そして、花穂くんのこともね……」
「そっか……」
黄色い銀杏の葉を肩に受け止めつつ、花穂はしばらくの間、千影と一緒に、青い空に浮かぶ白い月を眺め続けた。
「月が見守ってくれる」と思いながらそうしていると、何となく、憂鬱気味だった気分が少しずつ晴れてきた。
そして花穂は、肩の上の落ち葉を払いながら、
「花穂も……」
「ん？」
「あんな風になりたいな……」
「月みたいにかい？」
「うん」
花穂は千影の方を向き、
「お月様みたいに、お兄ちゃまの心を明るい光で照らしてあげるんだ。『がんばれがんばれ、お兄ちゃま』って」
と言って、微笑んだ。
「『がんばれ』……か」
千影も微笑を返し、
「なるほど……、花穂くんが何を悩んでいたのか、わかったよ」
「えっ？」
「明日のチアの事だね」
花穂は、しばらく黙ったあと、答えた。
「うん……。花穂、明日お兄ちゃまたちのこと応援するんだけど……」
先述した通り、花穂の兄は同じ学校の上級生にあたる。
花穂は、自分の慕う兄を応援するためにチアリーディング部に所属し、日々チアの練習に励んできた。
そして、翌日の日曜は学校対抗陸上大会で、これに花穂の兄も参加する。花穂にとっては、練習の成果を発揮するための大事な大会であった。
……が、肝心のチア技術に関しては、未熟な点が多かった。
今までに本番のチアに参加させてもらえなかったのもそのせいであり、今回の参加決定も、実際のところボーダーで決まったようなものであった。
「失敗したらどうしよう……」
花穂は顔をうつむかせた。
「花穂、ドジっ子だから、大切なときに失敗しちゃいそうで、恐いよ……」
その表情が硬くなる。
「……花穂が失敗したせいでお兄ちゃまが負けちゃったら……」
「兄くんが負けたら……か」
千影は月の方を向いた。
「月は、いかなる者の心も照らすもの……」
そうつぶやき、しばらく考える素振りを見せた後、
「花穂くん……、そんなにチアが上手になりたいのかい？」
花穂は、しばらく黙った後、無言でコクンと頷いた。
「それなら……」
千影は、どこからともなく、奇妙な紋章のついた小さな指輪を取り出した。
「今日寝るとき、これを指にはめて眠るといいだろう」
「これを？」
花穂は、その指輪を受け取る。
「明日のチアには間に合わないかもしれないが……人の心を動かす上で、大切な事を教えてくれる筈だ」
「それって、どういうこと？」
「まあ、やってみればわかるさ……」
そう言って、千影は口元に笑みを浮かべた。
「ふーん……」
花穂はしばらくの間、手のひらの上の指輪を、不思議そうに眺める。
そして、
「うーん、よくわかんないけど、やってみるよ。千影ちゃん、ありがと」
と、さっきまで千影のいた方に顔を向けてみると、
「あれ？」
もうそこには、千影の姿は無かった。
「千影ちゃん……」
花穂はモールを後にし、家路につく。
落ち葉の散らばる歩道の上を歩いてゆくと、周囲の光景が、徐々に商店街から住宅地のそれへと変化してゆく。
時折吹く秋の冷たい風に少しだけ震えつつ、やがて花穂は、川の上にかかる大きな鉄橋の前に差し掛かった。
「……あ」
彼女はその場に立ち止まった。
先刻の衛の話を思い出す。
「ボクには、そこで待っている人がいたんだ。ボクは自分の傘とは別に、もう一本の傘を持っていたんだよ」
そして、花穂は、もう一つの事を思い起こした。
「お兄ちゃま……」
夏のどしゃ降りの日。
花穂は橋の上にひざをついて、全身を泥だらけ、雨水だらけにしながら、大声で泣いていた。
彼女はつい数十秒前まで、綺麗にラッピングした小箱を、雨に濡れないよう大切に抱きかかえながら走っていた。
だが、その包みは、今は橋の数メートル下、雨で増水した川の中だ。
もはや花穂の耳に入るのは、自らの嗚咽と、無数の雫が地面や水面の上で弾け飛ぶ音だけだった。
……かと思われたが、そうではなかった。
雨の音の向こうから、バチャバチャと水しぶきを上げながら誰かが駆け寄る音が聞こえてきた。
そして、その後に聞こえたのは、花穂の良く知っている誰かが、彼女の名前を呼ぶ声だった。
「……お兄ちゃま？」
花穂は一瞬、安堵の表情を浮かべる。
彼は、自らの傘の他に、花穂の分の傘を持って来たのだ。
が、花穂の顔は再び悲しみに歪んだ。
「お兄ちゃま……。ごめんなさい、ごめんなさい……」
両の瞳から涙をポロポロとこぼしながら、花穂は兄に、ひたすら謝り続けた。
「花穂ちゃん」
聞き覚えのある声で、花穂の回想は中断された。
振り向くと、そこには衛がいた。
スイミングのレッスンがもう終わったのかと思ったが、それにしては少々早い。
「衛ちゃん、スイミングは？」
「ああ、今日は臨時休業なんだって」
「そうなんだ……、せっかく新しい水着買ったのにね」
「ほんと。ボク、もうすぐ昇級テストだから、練習したかったのに」
衛はため息をついた。
「衛ちゃんって今度特級なんだよね。すごいなあ……」
「行けるかどうかわかんないけどね」
「きっと行けるってば」
花穂は衛に微笑みかける。
「花穂、衛ちゃんのこと応援するからね」
「え？ ボ、ボクのことを？」
花穂が自分のことを応援してくれる。
顔を赤くして動揺する衛。
「衛ちゃん、どうしたの？」
「あ、なんでもないよ」
衛は、慌てて話題を変えた。
「ところで、花穂ちゃん、こんな所に立って、何してたの？」
「……あ、えっとね」
花穂は、橋の方を向いた。
「お兄ちゃまが、ここで待っててくれてたのを思い出したの」
「あにぃが？」
「うん……。あの日、ここで、花穂の傘を持って」
「あの日って？」
衛は疑問に思ったが、やがて、前に花穂から聞いた話を思い出す。
「ああ、あにぃの誕生日だね」
「そう。花穂が橋の上で転んじゃって、そのままプレゼントを落としてちゃった……」
花穂は、橋の欄干に寄りかかる。
「花穂……、せっかくのプレゼントをなくしちゃったこと、何度も何度も謝ったの」
「そうだったよね。そしたら、あにぃは……」
「うん。お兄ちゃまは『そんな事より、寒くないか？』って言ってくれて、そして、次の日になって、『風邪ひいたりしなかった？』って、花穂のこと心配してくれて……」
そして、花穂は微笑む。
「お兄ちゃま、花穂のこと大切に思っててくれたんだって、すごく嬉しかったんだぁ」
「だって、大事な妹だもん。だから、あにぃはずっとここで待ってたんだよ」
「衛ちゃんは……」
花穂は、衛の夢の話を持ち出した。
「夢の中で傘を持って、誰を待ってたの？」
「え……？ うーん、誰って言われても」
衛は、昨夜見た夢の内容を詳しく思い出そうとするが、
「……ごめん、わかんない」
「そっか。そうだよね」
「だけど、もしかしたらボクもあにぃと同じように、花穂ちゃんみたいな大切な人に傘をあげたいって思ってたのかもね」
「えっ？ 花穂みたいな？」
「あっ！ えーと……」
衛は、思わず出てしまったセリフをフォローするために、慌てて言葉を追加する。
「あにぃにとっての花穂ちゃんみたいな、ってこと！」
「……え？ それじゃ、衛ちゃんは、花穂のこと大切に思ってないんだね……」
うなだれる花穂。さらに慌てる衛。
「あ、ああっ！ 花穂ちゃんは大切な人だよ！ ボクにとっても！」
「そうなんだ」
花穂の表情が笑顔に戻った。
「ありがとう、衛ちゃん」
「う、うん。あははは」
衛は、ホッと胸をなでおろした。
橋を渡ってすぐに、二人は別れた。
「それじゃ、花穂ちゃん。明日のチア、がんばってね」
「うん、ありがとう。じゃあね」
「バイバイ」
衛と別れた後になって、花穂は明日のチアの事が再び心配になってきた。
千影の言葉を思い出し、彼女は空に浮かぶ白い月を見つめる。
……が、不安は消えなかった。
「そういえば……」
花穂は、千影から受け取った指輪をポケットから取り出す。
『今日寝るとき、これを指にはめて眠るといいだろう』
「千影ちゃん……」
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