夏、学校の『開かずの間』にて。
窓の前に立ち、静まりかえった外のグラウンドを見る。そして過去を、もう決して後戻りできない過去を思い返す。
「人は死の直前になると、自分の経験してきた全てを走馬灯のように思い返す」という言い伝えがある。今の僕が、ちょうどそれなのだろうか。（僕はもう『人』ではないかもしれないが…。）
最初の悪魔を魔界（悪魔の住む、人間の世界とは別に存在する世界）から呼び出した日、それはいつの日だっただろう。
僕はその日の昼休み、校舎三階の廊下の突き当たりにある、通称『開かずの間』という用途不明の部屋にいた。この部屋の鍵が失われて久しいが、僕はその失われたはずの鍵を持っていた。体育館の裏で拾ったのだ。
悪魔を召喚する理由、それは、クラスの者たちに対する復讐であった。僕はいじめられていたのだ。ひどいいじめだった。毎日毎日、殴る蹴るの暴行を受け、生傷が絶えなかった。僕の大切な持ち物を壊されたこともあった。そんな僕を見ても、ほとんど誰も助けてはくれなかった。朝は胃が痛み、三度の飯はまずく、夜は枕を涙で濡らし、明日が来るのが恐くてなかなか寝つけない…そんな毎日だった。ふと気がつくと自殺を考えていた、そんなことが、一体何度あったことか。部屋の鍵を手に入れたのも、体育館の裏でリンチを受けた後だった。
黒魔術、しかも悪魔召喚という、人知を超越した技術を用いることに、ためらいがなかったわけではない。しかし、連中から受けた数々の仕打ちを思い浮かべることによって、そのためらいも消えていった。（それくらい、彼らの暴力はひどかったのだ。）
ドアに鍵をかける。部屋は密室になった。
白のポスターカラーで、床に大きな魔法陣をかいた。
魔法陣の前に立つ。そして長い召喚の呪文を唱え、
「闇に生まれし者よ。今閉ざされし門を開き、ここに召喚す。出でよ、わが同胞よ！」
次の瞬間、魔法陣の中央から、ボッという音と共に灰色の大きな煙があがった。
僕は、その煙の中にぼんやりとした、人の形をした影を見た。
灰色の煙が消えてゆくにつれ、人の影ははっきりしてきた。
そして煙が全て消えると、人の影は、その完全な姿を見せた。
紫色の肌、コウモリの羽根、長い爪、とがった耳、髪のない頭にはやした二本の角、鋭い牙、光り輝く目、そして細長い尻尾を持った、裸の男…悪魔だった。
悪魔が口を開いた。
「俺は悪魔サッダだ…。悪魔の掟にしたがって、召喚者であるお前の頼みを一つ聞いてやる。言ってみろ…。」
僕は、何か言おうとした。しかしその前に、僕はある一つの事実に気付いてハッとした。彼は『頼るべき存在』である以前に、人知を超越した、危険極まりない悪魔なのだ。連中への恨みで忘れかけていた、冷静に考えればわかるはずの事実に、この時になってやっと気付いたのだ。
押さえつけていた恐怖心が一気によみがえった。僕は逃げようとした。が、恐怖のあまり足が動かなかった。
恐ろしさで僕が何も言えないでいると、悪魔・サッダはまた言った。
「どうした？俺が恐いのか？」
それでも僕が黙っていると、
「まあ、お前が何もしゃべらなくても、お前が俺に頼みたいことはだいたいわかる…。自分をひどい目にあわせた、クラスの連中に復讐をしてほしい…そうだろう？」
彼の言葉が的を射ていたので、僕は驚いた。
「どうして…どうしてわかるんだ？」
「悪魔はな、近い将来に自分を召喚する人間を予知できるんだ。お前が俺を呼ぶことを知っていた俺は、あらかじめお前と、お前の周辺のデータを下調べしておいた。」
「予知…予知ができるのか？」
「ああ、おかげで今、魔界は大騒ぎさ。」
「大騒ぎ？」
彼は意味不明な事を言ったが、僕はあとで、この言葉の意味を知ることになる。
「…まあとにかく、それなら話は早い。早速行ってきてくれ。」
僕は言った。彼の口調が意外に親しげだったせいもあって、いつの間にか彼に対する恐怖心が薄らいでいた。
サッダは、
「そうか…なら行ってくる。そうそう、お前はしばらく、この部屋から出ないでくれ。お前が出ると面倒なことになる。」
そう言って、彼は霧のように消えた。消える際に、
「しかし、こんな頼みをしてくれるとはありがたいな…。腕がなるぜ…。」
と、つぶやいていた。
それから数十分、『開かずの間』の中を沈黙が支配していた。休み時間の終わりと授業の開始を告げるベルが鳴ったが、それが鳴りやむと、また部屋の中は静かになった。
その沈黙の中、僕の心は複雑な気持ちで満たされていた。
なぜいじめの復讐のためなどに、悪魔なんかを召喚したのだろう。もっといい方法があったかもしれないのに…。何にせよ、もう後戻りはできない。でも、できることなら後戻りしたい…。
ある瞬間、沈黙は下の階から響いてきた爆発音によって破られた。
僕は、この部屋の真下が理科の実験室だったことと、この時間の授業が理科、それも化学の実験だったことを思い出した。
まさか、と思った僕は部屋を飛び出し、階段を降りて実験室へ走った。
実験室の前には、すでに多くの生徒や先生が集まっていた。
人だかりをかき分け、僕は実験室に入った。
地獄絵図の様相だった。部屋のありとあらゆるものは破壊され、いたる所に、クラスの連中、僕をいじめた、あるいは無視し続けたクラスの連中が倒れていた。
死んでいる者、生きている者、五体そろっている者、そろっていない者、叫ぶ者、うめく者、辺りに散らばる臓器、それから血液…。
その中で僕は一人だけ、無傷のまま部屋の中央に立ちすくみ、ぼうぜんとしている女子生徒を見つけた。
彼女は如月沙羅とう。悲惨な毎日を送っていた僕に真に優しくしてくれた、数少ない人間だ。当時の僕にとって、なおさら今の僕にとって、絶対に忘れることのできない存在だ。
僕は、沙羅に話しかけた。
「これは一体…どうしたんだ？」
すると彼女は、
「…どこに行っていたの？…ううん、聞かないでおくわ。」
彼女は、悪魔召喚についてのことは全く知らない。しかし、僕がどこかに隠れていたことは、だいたいわかっていたようだ。
沙羅は続けて、
「大爆発が起こったの…誰かが、薬品の扱いかたを間違えたらしいわ。でも、それがこんなことになるなんて…。」
確かに、常識的に考えて、普通の学校の実験室で、単なる薬品の取り扱いミスでこんな大爆発が起こるなど、まず考えられない。
これが悪魔・サッダの仕業であることを、疑う余地はなかった。
沙羅がつぶやいた。
「みんな…みんな死んじゃった…。」
「全員死んだわけじゃないさ。」
僕はそう言ったが、沙羅はそのまま泣き崩れてしまった。
「ひどいよ…ひどすぎるよ…。」
だが、ひどいと思ったのは僕も一緒だった。
その日の放課後、僕は再び『開かずの間』に入った。すでに、サッダの姿があった。
「外はどんな様子だ？」
サッダは聞いた。
「大混乱だ。」
僕は答えた。
「野次馬や、救急関係、報道関係の人間がたくさん集まってね。たぶん明日は新聞の三面記事だろう。ところで…。」
「何だ？」
「あれはひどすぎるんじゃないか！」
僕は、責めるように言った。すると、サッダは聞いてきた。
「…連中に同情してるのか？」
「あんな悲惨な姿を見ればね…。」
「だが、やれと言ったのはお前だ。」
「あそこまでやれとは言ってない。」
「やるなとも言わなかった。」
「…。」
僕は、反論できずに黙りこくった。
さらにサッダは言った。
「お前は、悪魔というものに対する認識が低いようだ。悪魔は召喚者の頼みは聞くが、同時に自分の…いや、自分たちの目的を達成させることも忘れない。まあ、目的を達成させやすい頼みをしてくれたのはありがたかった。そのことは感謝してるぞ。」
「…人を傷つけるのが『目的』なのか？」
「そんなところだ。さて…。」
サッダは、窓の方に歩いていった。
「お前の頼みはかなえた。これから俺は好きなようにやる。目的の達成のためにな…。」
「…これからも人を傷つけるのか？」
「止めても無駄だ。」
サッダは窓を開け、黒い翼を広げた。
「いいか、俺がやることは悪事じゃない、善行だ。よく覚えておけ。じゃあ…さらばだ！」
「どういうことだ？おい！」
僕は彼に聞こうとした。が、それよりも早くに彼は外に飛び立ってしまった。
この事件で、クラスのほぼ半数が死に（僕に直接手を出した者は、全員死んだ）、残りのほとんども重傷を負って入院。生涯消えない傷を負った者も少なくない。
結果的に、無事だったのは僕と沙羅だけだった。クラスが崩壊したので、僕たち二人は他のクラスに編入させられた。
実験室での事件以降この街では、同様の怪事件が何件か起こった。そのたびにマスコミに大きく取り上げられ、街の住人を震え上がらせた。もちろん、すべてサッダの仕業であることは言うまでもない。
だが、当初僕が思っていたほど、事件は多く起こらなかった。
サッダの『目的』は、いわゆる無差別殺人とは違う…うすうすだが、そう感じていた。彼はターゲットを特定している…そうとも感じられた。
サッダ、いや、悪魔たち共通の『目的』とは何なのだろうか。僕はその答えを知りたかったが、答えを知る前に二人目の悪魔を呼び出していた。
サッダを呼び出してから数週間後のことだ。
「ここまでやれとは言わなかったぞ！」
前にどこかで言ったようなことを、僕は二人目の悪魔、漆黒の甲胄を身にまとい、長い髪と美しいが冷たい顔を持ち、腰に剣をさした女悪魔・ダルクに言った。
「やれと言ったのはあなたでしょう？」
その日の夜中、僕とダルクは森の中の、広い道のそばの歩道の上にいた。
目の前には、スクラップと化した車があった。ついさっき、電柱にぶつかったのだ。
その車の中には、一人の男がいた。彼は即死していた。スクラップから、血がしたたっていた。
その男は…僕の父だった。ちょうど職場からの帰り道だったのだ。
ダルクは続けて言った。
「『今回のテストの結果が学年六位だった。前回、学年二位から四位に落ちたら、死ぬほど殴られた。今回はさらに落ちたので、もしかしたら殺されるかもしれない…。だから、なんとかしてほしい。』あなたはそう言ったじゃない。」
「なにも殺さなくたって…。」
その時僕は、サッダの言った『目的』という言葉を思い出した。僕は聞いた。
「もしかして親父を殺したのも…お前たち悪魔の共通の『目的』によるものなのか？」
「そのとおりよ。」
「教えてくれ。」
僕は聞いた。
「『目的』って何だ？単なる殺戮とは違うんだろう？僕には、ある特定の人間にターゲットを絞ってるように見えるけど…。」
「そう、単なる殺戮とは違う…ある種の人間を、この世から消し去ること…。」
「ある種の人間とは？」
ダルクはその質問には答えず、こう言った。
「私達がしているのは、正しいことなのよ。」
「サッダもそんなことを言った。」
「…あなたには理解できないかもしれない。」
「それでもいい。」
「なら教えてあげる。私達の『目的』は…。」
しばらく間があった。そして彼女は続けた。
「『正義狩り』…。」
「正義狩り？」
僕は、彼女の言葉に矛盾を感じた。
「正義を狩るのが…善行なのか？」
「正義と善は違うわ。善は真に正しいこと。正義は、うわべっつらの正しさや、自己満足の道具としての正しさよ。」
彼女は、続けて言った。
「私やサッダが『狩った』人間は、全て自分の悪を隠して、あるいは悪に気付かず、正義面をしていた人間よ。あなたのクラスメートも、あなたのお父さんも。あなたのお父さんは、あなたを苦しめることを『わが子への愛』だと思い続け、実はそれが単なる自己満足であることに気付いていなかった…。」
「それなら…クラスの連中は。」
「あなたを、いじめられて当然の存在だと思っていたわ。いじめられて当然の者をいじめて何が悪い。むしろ『ギャラリー』に『娯楽』を提供している。だから自分たちはいい人間だ…なんて思っていたのよ。『ギャラリー』、つまりただ見ていただけの連中も同じ。『いい人間』である彼らが与えてくれた『娯楽』、見て楽むのが彼らに対する感謝というもの…なんて思っていたわ。でも、思っていただけ。自らの良心に対して言い訳をし、実は自分の残虐な欲望を満たしていたのよ。彼らがそれに気付いていたかどうかは別として…。とにかく、サッダはそれが許せなかったのよ。私だって許せない…。」
彼女は、さらに続けて、
「いい？この世で言われてる善のほとんどは、この『正義』のたぐいなのよ。そして『正義』は、この世を支配している…。『正義』の名において小国に攻め込んだ大国は、その軍が現地でどんなことをしたのかを考えても、決して善とは言えないはず。でも、みんな『正義』の大国を善だと言う。これこそ、この世を『正義』が支配している証拠。私達は、この世を『正義』の支配から解放しなくてはならないわ。」
言い終えると、彼女は僕に背を向けた。
「もういいでしょう？これからは私の意志で、『正義』を狩るわ。サッダと同じように…。その気になれば…国家権力だって相手にするわ。」
「待ってくれ！」
僕は彼女を引き止めた。僕には、もっと聞きたいことがあった。
しかし、次の瞬間彼女は黒い霧になり、そして消えてしまった。
彼らの『目的』はわかった。しかし、なぜその『目的』を達成させようとするのか、それがわからなかった。
彼らは、自分達の行いを『善行』と言っていた。だが、それが単なる勧善懲悪（ここでは『懲正義』か）でないことは、なんとだくだがわかっていた。
何ゆえに彼らは『目的』を持つのか。それをはっきりさせないうちに僕は、また彼らの『目的』達成に協力することになった。
そう、僕は三人目の悪魔を召喚したのだ。
とある夜。
気がつくと、僕は血の海の中に立っていた。
その部屋は『職員室』という名の部屋で、血の海の上には、かつて『教師』という名を持っていた肉塊が浮かんでいた。
この『教師』は、学園の威信を回復させ、生徒や父兄を安心させるという目的で、つまり『正義』の名において、僕を例の実験室の事件の犯人に仕立てあげ、僕に自白を強要したのだ。
僕の目の前には、『教師』を肉塊に変えた張本人である、灰色のローブに身を包み、濃いひげを生やした男、悪魔・クライトがいた。
「こうなることは予想できたはず。にもかかわらず、あなたは私を召喚した。なぜですかな？」
クライトは意地悪く聞いた。しかし僕は答えず、逆に聞いた。
「なぜ…なぜこんなことを…。」
「その質問には、ダルクが答えたはず。」
「そうじゃない。お前達の『目的』はわかった。でも、なぜお前達がその『目的』を達成させようとするのかが…。」
「我々悪魔は真に善なる者、理由などありません。ただ、『正義』に対する憎しみが、人一倍強いだけです。」
「なぜ憎む？」
「我々悪魔の大半は、『正義』のために悲惨な最期を迎えた人間の転生なのです。」（クライトの言う『大半の悪魔』以外の悪魔は、後の僕と同じ運命をたどった者たちだ。）
「…転生？」
「そうです。ある者は『正義』の名において虐殺され、ある者は『正義』にいいように利用されたあげく捨てられた…。例えば遠い昔中東に住んでいたサッダは、『正義』を名乗る大国の侵略によって殺されました。例えばフランスに生まれたダルクは、『正義』の手によって『救世主』とやらにまつりあげられ、やがて用済みになると見捨てられ、最後にはイギリス軍に捕らえられて処刑されました。この私も、彼らと同様の最期を…。いまわの際に、我々は決意したのです。幾度生まれ変わろうとも、この世から『正義』を抹殺するまでは朽ち果てぬ、と。そうして死んだ我々は、魔界に転生しました。悪魔として…。」
クライトは、さらに続けた。
「『正義狩り』は、我々の使命なのです。この世を『正義』の支配から解放することこそ、我々の存在理由なのです。幾度死しても、何度でも魔界に戻ってやり直す…。しかし、魔界にいる我々は、人間の召喚を受けなければ、人間界に出られない。つまり、人間の助けが必要なのです。悪魔が召喚者の頼みを聞くのは、召喚者に対する一種の礼なのです。」
僕は、悪魔への全面協力を決意した。ダルクやクライトの話に感銘を受けたこともある。しかし、僕は間接的に、多くの人間を殺したのだ。もう後戻りはできないことを、僕はすでに悟っていた。
もう家に、父のいない家に帰ることはなかった。『開かずの間』にこもり、ただひたすら、悪魔を召喚し続けた。頼みごともないのに召喚した。ためらいはなかった。（前にサッダが言った『大騒ぎ』の意味が、ここでわかった。）学園は、悪魔の巣窟と化した。
学園から人の姿が消えた。
大量の悪魔が外を飛び回り、やがて街からも人の姿が消えた。
それでも僕は、悪魔を召喚し続けた。
ある朝、ふと鏡を見た時、僕は鏡の向こうに、普段の僕ではない僕を発見した。
顔や体型はもとのままだった。しかし、その他は全く別のもの…悪魔のものになっていた。ブレザーは紺のマントになり、頭には角がはえ、口から牙が出て、背中には羽根が…そう、僕は悪魔になったのだ。
僕の精神は、悪魔を呼ぶたびにその悪魔の影響を受け、少しずつ悪魔に近くなっていった。正義をこの世から抹殺しなくてはならない。そのためなら、どんな残酷なことでもできる…そんな気持ちが強くなっていった。逆に以前の僕が持っていた、悪魔に殺された者をあわれみ、悪魔を召喚するという自らの行為に疑問を感じる気持ちは、日に日に少なくなっていった。（クライトが教師を殺した時、サッダの時ほどひどいと感じなかったことを考えても明らかだ。）
その結果、精神が完全に悪魔のものと化し、さらに肉体までもが悪魔と化した。後で気付いたが、悪魔の魔法も使えるようになっていた。
クライトは、そう珍しい現象ではない、と言っていた。
何にせよ、もう後戻りはできない…と、またここで確信した。しかし、後戻りしたいとは、もう思わなかった。
死を恐れなくなったのも、この頃からだ。悪魔は死んでも、（たとえ後天的に悪魔化したのであっても）魔界に行くだけだ、と、クライトから聞いたからだ。
ついに自衛隊が動き出した。大量の兵器と人員をつぎ込み、悪魔退治を始めたのだ。
悪魔の力に比べたら、自衛隊の力などとるに足らない。しかし、悪魔たちはその自衛隊を相手に、自分の全ての力を出すわけにはいかなかった。なぜなら、自衛隊は真の敵である『正義』ではなく、ただ悪魔を恐れるがゆえに攻撃してくるだけの存在だから。
それゆえ悪魔は、相手を傷つけることができなかった。魔法を使い、人を傷つけずに兵器のみを破壊するのも可能だが、困難である。
多くの悪魔が倒された。生き残った悪魔は、本拠地である学校に集結した。
しかし、自衛隊の動きは思いのほか早かった。戦車やら装甲車やらが、たちまち学校を包囲した。
だが、校内にあふれんばかりの悪魔がいることを知ったのだろうか、『城攻め』は困難であると判断したようだ。
そこで彼らはヘリコプターを用いて、上空から一通の手紙を投げ込んだ。
「某月某日某曜日の正午までに学校から撤退せよ。さもなくば攻撃あるのみ。」
との内容だった。
かつて職員室だった部屋、クライトが教師を肉塊に変えた部屋にて。
「我々はかなり不利な状況におかれています。この状況を打破するには、合理的な作戦を、十分に練らなくてはなりません。しかし、そのためには時間が必要です。与えられた時間はそう多くありませんが、少なくとも彼らの言う『タイムリミット』までは…。」
と、クライトが言いかけた途中で、
「ねえ、沙羅っていう女の子が来たわよ。」
ダルクが僕を呼んだ。
「沙羅が…？」
僕は、実験室の爆発で唯一無傷だった、彼女を思い出した。
「サッダ、沙羅っていうと、例の実験室であなたが一人だけ助けた子でしょう？」
ダルクが、僕のそばにいたサッダに聞くと、サッダは答えた。
「ああ。彼女はクラスの他の連中と違って、『正義』じゃなかったからな。」
ドアが開いた。そこには沙羅がいた。沙羅は、僕を見て言った。
「やっぱり…あなただったのね。」
僕は聞いた。
「…どうやってここまで来た？いや、そんなことはどうでもいい。それよりも、なぜここに来た？」
「…あなたに話があるの。誰もいない部屋に連れてって。」
『開かずの間』。僕が悪魔たちを召喚した場所。ポスターカラーの魔法陣がある場所。
僕の鍵でしか開かない、完全な密室。
沙羅が口を開いた。
「ずいぶんと変わったのね…私、前のあなたの方がよかった。」
「毎日いじめられていた僕がか？」
「でも、優しかった。気に入らない人を傷つけるなんて、考えなかった。ねえ、どうしてそんなになっちゃったの？どうして悪魔を呼ぶの？自分を悪魔に変えてまで…どうして？」
「僕の優しさはどこかに消えてしまったよ。悪魔を呼ぶたびに少しずつ消えて…そして、僕が悪魔化した時に全てが消えた。」
僕はそう言うと、一息ついて、今度は彼女の質問に答えた。
「僕は、悪魔の計画に加わることを決意した。この世から『正義』を、自らの非を認めず、自らの行為を正当化する連中を抹殺し、奴らからこの世を解放するする計画に。悪魔のほとんどは、『正義』のために死んだ人間の転生なんだ。」
「…何それ…単なる復讐じゃないの！」
「え？」
「『正義』からこの世を解放する、なんて言っても、結局恨みを正当化してるだけじゃない！それこそウソの正しさ、あなたたちの言うところの『正義』と何も変わらない！」
それを聞いたとき、僕が失ったはずの何かが、よみがえったような気がした。
沙羅は、泣きながら話し続けた。
「もう…これ以上人を傷つけるのはやめて。何にもならない…ただ、悲しみと憎しみを呼ぶだけ…。クラスのみんな…あなたのお父さん…先生…みんな死ななくていい人なのに死んでいった…。」
僕は悪魔になって初めて「後戻りしたい」と思った。しかし…、
「でも、僕はもう後戻りできない…。全ての悪魔がこの学校に集結している今なら、悪魔を魔界に戻すのは簡単だ。魔法陣の前で、送還の呪文を唱えさえすれば…。でも、僕は何人もの人を間接的に殺している…しかも僕は悪魔になった…今さらどうして戻れる…。」
「魔法を使えば悪魔の姿を隠せるじゃない。誰も、あなたが悪魔を呼んだことは知らないわ。戻れるはずよ…。」
「でも…。」
「…私が何と言っても、最後に決めるのはあなた。」
彼女は泣きやんでいた。
「帰るわ。ドアを開けて。」
僕はふところから鍵を取り出した。そして、ドアの鍵を開けた。
帰り際に、彼女は言った。
「あなたが、私の言うことを聞いて…そしてもとに戻ってくれると信じてる…。」
それからずっと、僕は悩んだ。
外見だけはごまかすことができる。しかし、本当の意味で「後戻り」できるのだろうか。後戻りできないのなら…このまま前進した方がずっといい。
タイムリミットが目前に迫り、圧倒的に不利な戦い（クライトは、『作戦は十分に練りましたが、それでもわが軍の不利は否めません。』と言っていた。）が今まさに始まろうとしている。
しかし、この『開かずの間』で待機している今に至っても、まだ悩んでいた。
僕のすぐ後ろに魔法陣がある。
この魔法陣の前で送還の呪文を唱えれば、学校の全ての悪魔を魔界に戻すことができる。
タイムリミットの三分前、僕は魔法陣の方を向いた。
「戻ってみよう…たとえ戻れなくても…。」
魔法陣の前に立つ。精神を集中する。そして呪文を…唱えようとしたその時だった。
僕は、今と同じようにして、悪魔を呼び続けた日々を思い出してしまった。
あの時、僕はどんな気持ちで悪魔を呼んでいたのか。この世から『正義』を抹殺しよう、そう思っていたんじゃないか！なぜ今さら逃げる！『正義』のために死んだ悪魔たちを裏切るのか！『正義』の前に屈するのか！単なる復讐だって？違う！我々は正しい！『正義』はこの世から消えるべきだ！
僕は、呪文を唱えるのをやめた。
もう、「後戻りしたい」とは思わなかった。
運命の時が来た。
自衛隊と悪魔たちが同時に動き出した。
僕は、背中の翼で窓から飛びたった。
一瞬、沙羅の嘆く顔が見えた。
完
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