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　紀と連絡がつかないまま木曜日が終わり、金曜日も終わった。
　そして、土曜日。
「暑い……」
　ベッドのシーツの中で目覚めた輝之の肌には、うっすらと汗がにじみ出ていた。
　本当に気候というのはよくわからない。涼しくなったと思いきや、昨日からまた猛暑の復活である。
　何も着けずに寝て正解だった。彼は脚でシーツを跳ね上げて起き、タンスから下着を取り出して身につける。
　ズボンとシャツを着ながら時計に目を向けると、もう十時を回っていた。しかし今日は休日だから問題ない。
　のろのろと下におり、洗面所で顔を洗って歯を磨いて、乱れた髪をドライヤーで整える。
　その後、ダイニングへと向かった。
「おはよう、輝之。ずいぶん遅いお目覚めね」
　母親はそう言って、輝之の分の食パンをトースターに入れる。
　二十代後半の娘がいるとは思えないくらい若々しく、美しい女性である。
　輝之はテーブルの前の椅子に腰掛けながら答える。
「ゆうべ、遅くまで編み物してたから」
「そう……」
　母親は、わが子に微笑んだ。
「輝之は優しい子ね」
「そんなことないよ」
　照れ隠しではなく、本音だ。紀にあんな事を言った自分が、優しいだなんて……。
　やがて、できあがったトーストを食べ終え、母親がマグカップに注いでくれたミルクを飲み終える。
　その時だった。

　ピンポーン

「あら、お客さんね」
　母親はインターホンの受話器をとった。
「はい。……え？　輝之ですか？　ちょっとお待ちくださいね」
「僕？」
　母は受話器を置いて答える。
「ええ。男の子みたいだけど」
「達雄かな？」
　彼は椅子から立ち上がり玄関へと向かった。
　ドアを開けて外に出ると、門の向こうにいたのは……、
「え？」
　ジーンズにＴシャツ姿の少年。しかし達雄ではなく、見知らぬ人物だ。
「誰だろ？」
　不思議に思いながらも門の前に駆け寄った。
　身長は小柄……、といっても、輝之よりは若干高い。髭のまったく生えていないきれいな肌からして、年齢は輝之と同じくらいか。
　問題はファッションだ。長い髪を後ろで束ねて、目にサングラスをかけている。
　怪しい。
「あの……、どなたですか？」
　開けないように気をつけながら、門越しにおそるおそる語りかける。
「ぼくだよ……」
　『彼』の口から発せられたのは、どこかで聞いたことのある声だった。が、なかなか思い出せない。
「だ、誰？」
「わからない？」
　『彼』は、ゆっくりとサングラスを外した。その顔は……、
「えっ？」
　意外としか言いようがなかった。
　その顔つき、きれいな白い肌。よく知っている。
「く、黒崎さん？」
「うん……」
　意識して低い声を発しているようだが、間違いなく紀のそれだった。
　胸のあたりをよく見ると、きつく巻いてあるサラシがＴシャツに浮かび上がっていた。
「な、なんで、男装なんかしてるの？」
「輝之」
　彼の問いには答えずに、紀は彼の下の名前を呼び捨てにした。そして、
「ぼくとデートしようよ」
　と、門ににじり寄ってきた。
「で、デートぉ？」
「いや？」
　嫌などではない。しかし、心の準備がいる。
　彼はこれまでデートなどしたことがなかったし、それ以前に、こんな格好でやってきた彼女にどう反応していいのかもわからない。
　互いに黙って見つめ合うなか、彼は思考をめぐらせた。
　そうして一分ほど沈黙が続いたのち、彼は口を開いた。
「わかった。一緒にどこか行こ？」
　輝之は満面の笑みで答える。
「ありが……、いや、サンキュ」
　無理に男っぽく言う紀。しかし、その上品な微笑みは、よく知っている十四歳の少女のそれだった。
「で、どこに行くのかは決めてる？」
「いや、決めてない」
「そっか。それじゃ、できるだけ遠いところがいいね」
「どうして？」
「だって」
　輝之の笑みが含みのあるものに変わる。
「男の子が二人歩いてても、デートらしくないから」
　そう言っても、紀はよくわからないようだった。

　大野崎駅から電車で一駅。その隣の市の駅前をデートの場所に決めた。ここなら知り合いに出くわす危険はない。
　改札から出たところで輝之は、
「ちょっと待っててね。着替えてくるから」
　と、紀にひとこと言って、人ごみをかいくぐりながら大きなスポーツバッグを手に、駅ビルのデパートの中に入っていった。
　それからおよそ十分。
「おまたせ」
　紀の前にふたたびあらわれた輝之の姿は……。
「え？」
　彼女が目を丸くしているのが、サングラスごしでもわかった。
「かなめくん？　どこに行こっか？」
　『少女』はそう言って、手を後ろに回して首を傾け、可憐な笑みを『少年』に見せる。
　そう、輝之が着替えたのは、二週間前に購入した、あの白いノースリーブのワンピースと麦わら帽子だった。
　ちなみに着替えた場所については、彼の名誉のためにあえて触れない。ご想像におまかせする。
「輝之……、いや、テル。可愛いよ」
　紀は頬をゆるませてそう言った。
　そうして微笑みあい、手を取り合いながら街へ出る二人の姿は、確かにデートにのぞむ男女のそれだった。

　まず二人は、駅前のファミリーレストランへと向かう。
　輝之は先ほど朝食をとったばかりなので、チョコレートパフェだけ。一方紀は激辛カレーピラフだ。
「紀ちゃ……ううん、紀くん。辛いもの好きなの？」
「お、男だったら、このぐらい……」
「あんまり無理しないでね」
　そうして注文したメニューがテーブルに運ばれてきた。が、
「う、うう……」
　紀は明らかに無理している。まだ三分の一も食べていないのに、水はコップに三倍もおかわり。
　輝之は、汗だくになって這うように食べる紀に気を取られ、ほとんどチョコパフェに手をつけていない。
「ごめん……、もう食べられない」
　結局、弱音を吐いてギブアップだ。
「これ食べる？」
　輝之は、ほとんど手つかずでクリームが山盛りのままのチョコパフェを、紀に差し出した。
「食べたいけど……。それじゃ、テルが食べるものが……」
「僕……、いや、わたしはこっちを食べるから。いい？」
　と、激辛ピラフを指さす。
「いいけど、でもテルは辛いもの苦手なんだよね？」
「大丈夫。たぶん」
　もうひとつのスプーンを手にとって、カレーピラフの皿を自分に寄せる。そしてすくって一口食べた。
（うぐっ！）
　予想以上の辛さだ。舌から喉から腹に至るまでしびれそうだ。
　だが、なんとかイけないこともない。彼は気合いを入れて、その黄色い悪魔を次から次へと口に運ぶ。
　こうした手合いは時間をかけたら負けだ。短期決戦に限る。水も極力控えるべきた。
　そして所要時間三分。彼はついに激辛カレーピラフを制覇した。
「や、やりましたッ！」
　顔は汗まみれ、消化器官は燃えそうだ。自分を褒めたい気分になりながら、コップの水を一気に流し込む。
「おめでとう」
　紀は軽く拍手してくれた。その紀のチョコパフェの容器を見ると、シロップのからんであるアイスが一口だけ残っていた。
「はい、どーぞ」
　彼女はスプーンでそれをすくい、輝之のまえに差し出す。
「えっ？」
　戸惑っている輝之に、彼女は、
「あーん」
　と優しく言った。
「あ、あーん」
　彼は口を開けて、それをぱくりと口の中に入れる。
　頬が赤くなっているのは、たぶん激辛ピラフのせいだけではない。
「おいしい？」
「うん、おいしい」
　本当においしかった。そしてそれは、たぶん激辛ピラフの直後だったせいだけではない。

　ファミレスの次はゲームセンターへ。ゲームセンターにも色々あるが、彼らが行ったのはかなり大規模な、誰でも気軽に入れそうなところだ。
　紀がプレイしたゲームは、「上から落ちてくる楽譜に合わせて鍵盤を押し、正しく演奏する」というもの。
　輝之は後ろから見ていたのだが、すごいとしか言いようがない。
　残像が映るような速さで落ちてくる、複雑な配置をした音符の固まりを、紀はほぼ完璧に拾っていた。実際、スピーカーから流れるテクノやユーロビートは、違和感なくちゃんとした曲になっていた。
「よく、こんなの押せるね……」
　ステージの合間に彼女に言うと、
「家で、暇さえあればやってるから」
　という答えが返ってきた。
　その後、輝之は一旦ある場所に向かい、しばらくして戻ってくると、ちょうど彼女のプレイが終わっていたところだ。
「失敗しちゃった」
　筐体をあとにして彼女は照れ笑いする。最高レベルの曲に挑戦したが、結果は惨敗だったらしい。
　彼女ほどの腕を持つプレイヤーが……と輝之は思ったが、彼女いわく、上級者ならあのくらいはできて当然というのが定説らしい。もう何も言えない。
「そうだ。これ」
　彼は、手に乗るほどの大きさのぬいぐるみを紀に見せた。
　ニンジンを持った白いウサギのぬいぐるみだ。
「どうしたの？　これ」
「さっき、キャッチャーで取ってきた。あげるよ」
「いいの？　ありがとう」
　紀はウサギを受け取って、幸せそうな顔でそれを眺める。
「かわいい……」
　口元も、サングラスで隠れた目元もゆるんでいる。
「僕、ゲームセンターで得意なものって言ったら、これくらいしかないから」
「私は全然だめ、こういうの。でもよかった。これ、欲しかったのよ……」
「え？　『私』？」
　輝之が指摘すると、紀は「あっ」と口に手をあてて訂正した。
「ぼくはぜんぜんだめなんだよ。でもよかった、これほしかったんだ」
　そんな彼女をほほえましく見つめるも、すぐに自分も「僕」と言っていたのに気づいて、
「わ、わたし、げーむせんたーでとくいなのっていったら……」
　そして二人は、そんなお互いの姿を見て、恥ずかしそうに笑うのであった。

　それから、二人は駅ビルのデパートへショッピングに向かう。
　パーティグッズ売り場に、アクセサリー売り場、輸入雑貨店、衣料品売り場……。
　ただし、女装した少年が男物を見たり、男装した少女が女物を見たりするのはおかしいと思ったから、衣料品売り場は軽く眺めて終わったが。
　結局、輝之は輸入雑貨店で珍しい菓子を買っただけだった。
　一方紀は、アクセサリー売り場で何かを買ったようだが、よくわからなかった。

　駅前の大通りを一通り回り、駅に戻ってきた頃にはすでに六時の少し前。すでに太陽は沈みかけていた。
　これで今日のデートは終わりだ。
「今日は……、とても楽しかった」
　時計塔を中心に金属製のオブジェが並ぶ駅前広場で、紀は輝之に言う。
「そうね。また、一緒に来たいね」
　相変わらず女言葉で受け答える輝之。
　周りにはカップルが何組かいて、それぞれがそれぞれの方法でそれぞれの時間を過ごしている。
「あの……」
　紀は言いかけて、恥ずかしそうに言葉を濁らせた。
「なに？」
　しばらく黙っていたあと、彼女は携帯を取り出して、キーを操作した。
「それ、見てほしい……」
　すぐに輝之の携帯が鳴った。
　ワンピースのポケットから出して見ると、写真付きのメールだった。
　しかし、その被写体は輝之ではない。
「これは……」
「そう、私よ」
　いつ撮ったのだろうか。男物のＴシャツを着てサングラスをかけた、少年のような紀だった。
「白川くん……」
　彼女は、輝之の目の前でサングラスを外した。
　後ろで紐をほどくと、長く美しい髪がパッとばらけた。
「それで……、私のこと、脅迫していいわよ」
「脅迫……？」
　輝之には、何を言っているのかわからない。
　その彼を前に、紀はデパートの紙袋の中から小さな包みをひとつ取り出す。
　開けると、中から出てきたのは、黒い革のベルトのようなもの。
「それは……？」
「チョーカー……。要は首輪よ」
　そして、彼女はそれを自らの首につけて、言う。
「これは、私があなたの奴隷になった証」
「え？」
「これからは、白川くんの言うこと何でも聞くわ。これからは、白川くんが私の王様よ。なんでも命令して」
「ま、待ってよ！」
　輝之は彼女を制止した。
「脅迫なんてできないよ」
「できるわよ。それをみんなに見せれば、『黒崎紀は男装して喜ぶような女だ』って思われてしまう。でも、白川くんの胸先ひとつでそれを防げるのよ？　どう？」
「そうじゃないよ！　僕は脅迫なんかしないって言って……」
「わからない……の？」
　彼女の声が震えはじめた。
　見ると、涙が頬を伝っていた。
「もう……、私は白川くんの弱みは握っていない……。白川くんは、もう私には尽くしてくれない……」
「黒崎さん……」
「だから、これからは私が、白川くんのために尽くしたいのよ。どんなひどい事でも、何でも聞いてあげるから。ね？　ね……？」
　藁にもすがる気持ち。
　そんな言葉が彼の脳裏をよぎる。
　こんな写真、脅迫材料になるわけがない。男が女の格好をすることと、女が男の格好をすることは全然違う。そんな事は彼女だって承知しているだろう。
　しかし、それでも彼女はすがりたいのだ。
　輝之がそばにいなければ、彼女は学校に行くことはできないから。
　輝之がいなくなったら、何もできないから……。
　泣いて懇願するその姿は、もはや奴隷を従えた女王のものではなかった。

　でも、紀にはこれからも自分の女王であってほしい。
　だから……、

「ちょっと、待っててね」
　輝之は彼女に言って、デパートへと駆けていった。
　数分後、彼はあるものを買って、彼女のもとへと戻った。
「どうしたの？」
　不思議そうな紀を前に、彼は包みを開ける。
　買ってきたのは、彼女のと同じ型のチョーカーだった。
「指輪交換ならぬ、首輪交換」
　輝之は穏やかな笑みを浮かべて、それを彼女の首もとに差し出す。
「これをつけてあげるから、それを僕の首につけて」
　言われるままに彼女が自らのチョーカーを外すと、輝之は自分の買ってきたそれを彼女の首につけた。
　そして彼女は、とまどいながらも、先ほどまでつけていたチョーカーを輝之の首につけた。
「これで黒崎さんは、これからも僕の女王様だね」
「どうして、こんな事を？」
「黒崎さん」
　彼は優しい笑顔のまま、彼女の顔を見つめる。
「僕が黒崎さんのために色々してた時、黒崎さん、とても嬉しそうだったよね？」
「……そうよね」
「それが、僕には嬉しかった。僕の力で君が喜んでくれるのが、とても嬉しくて、誇らしかった」
　彼はそう言って目を細める。
「私……、あんなにひどいことを要求したのに？　プールで恥ずかしい格好させたり、せっかくのお弁当を捨てたり、セーターを編むのを邪魔したりして、何回もいじめたのに……？」
「僕にだって越えてほしくない一線はあるよ。それをわかってくれれば、それでいいんだ。……だからね、これからも、僕に嬉しい思いをさせてほしい」
　彼は自分の『首輪』に手をあてて、続けた。
「鞄だって持ってあげる。お弁当も作ってくるし、宿題も見せてあげる。早く作れるかどうかわからないけど、セーターでもベストでも編んであげる。僕に危険さえ及ばないのなら、女の子の格好だってするよ。そして……」
　彼は紀に身を寄せて、彼女の『首輪』に手を触れる。
「……そして、黒崎さんが僕のためになにかをしてくれるのなら、僕はそれを、最高のよろこびと一緒に受け止めてあげる」

　時計塔が六時を指し。小さな扉が開いて、色とりどりの機械人形がおどり出てきた。
　透き通るような電子音で作られた、軽やかなマーチがあたりに響き渡った。
「ありがとう……、輝之くん……」
　涙が彼女の頬からのどを伝い、首輪と、彼の手とを濡らす。
「私……、何でもするから。輝之くんの喜ぶことなら、なんでもするからね」
「そのとき喜ぶのは、紀ちゃんも一緒だよ？　そうでないのなら、僕がそれを受け入れることはできないから。ね？」
「うん……」
　彼女はそう言って、強くうなずいた。
　泣きはらした彼女の顔は、その時、今までで一番の笑顔になっていた。
　マーチはまだ鳴り響き、人形たちは沈む夕陽に輝いていた。


　輝之と紀の携帯から、二人の恥ずかしい写真は消去された。