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　次の日の登校途中、彼の携帯に紀からメールが入った。
　ちなみに、昨日の夕方に達雄が来宅して充電器を返してくれたから、バッテリーの残量は十分だ。
『お弁当作りに苦戦してたので、学校に来るのが遅れます。先に教室に行っていてください』
「あーあ。またあのお弁当ですか……」
　うんざりしながらひとりごちる。悪気がないだけに、拒むことも難しい。
　一中に到着し、本来なら彼女との待ち合わせがある校門を素通りして、校舎の昇降口をくぐった。
　それから階段をのぼり、二年三組に向かって廊下を歩いてゆくと、向こうから女生徒が二人走ってきた。
　あの大と小のシルエットは、麻衣と千尋のコンビだ。
「しっ、白川くんッ！」
　自分の名を呼ばれ、輝之は足を止める。
　その麻衣の口調は、なぜか狼狽していた。
　目の前で立ち止まって息を切らせている二人に、
「どうしたの？　そんなに慌てて……」
　と言いかけたところで、麻衣が深々と頭を下げた。
「ごめんなさい！　ごめんなさい！」
「あのね、あのね……、ごめんなさいなの……」
　千尋も謝ってくる。
「だから、どうしたの？　何があったの？」
　事態が飲み込めない輝之に、二人は震える声で説明を始めた。
「あのね……、昨日、屋上で一緒にお弁当食べてたときに……」
「白川くんたちが屋上離れてる間……、見ちゃったのよ」
　そこで彼は、昼休みのことを思い起こした。
　そして、あることに気づいた瞬間、彼の全身が固まった。
「ま、まさか……、携帯？」
　そうだ。一旦屋上を離れている間、彼の携帯は充電のために、その場に置きっぱなしになっていたのだ。
「そ、そう。携帯。それで……、悪いとは思ったけど、『あの画像』をあたしの携帯にメールで転送したのよ」
「あの画像って、まさか……」
「そう。ワンピースと、スク水！」
　聞いたとたん、彼の顔が赤くなると同時に青くなった。矛盾しているようだが、とにかくそういう状態になったのだ。
　だが、それだけではなかったのだ。次の千尋の泣きそうなセリフで、彼は絶望のどん底にたたき落とされる。
「それでね……。それをさっき、教室でこっそり見てたら……。みんなに見られちゃったの」
「それって……、りょ、両方とも？」
「そ、そう！　それで今、みんながまわし見してて……！」
　麻衣の言葉を最後まで聞かず、彼の足がものすごい勢いで動き始めた。
（そ、そんな！）
　教室のドアをガラリと開けると、その瞬間に教室全体が静まりかえり、全員の視線が彼に集中した。
　生徒たちの多くは一カ所に集まっていた。その中心にいる女子生徒は、麻衣のものとおぼしき携帯を持っていた。
「ひそ……、ひそ……」
「ひそひそ」
　何人かがこちらを見てひそひそ話をする。内容は聞き取れない。
（ああ……）
　輝之はうなだれた。
　何が『自分から言ってやる』だ。
　そんな事言ったら、紀以上に自分が白い目で見られるというのに。
　でも、もうどうでもいい事だ。
　おしまいだ。
　たぶんあの画像は、校内にいる生徒という生徒に配られて、自分はあっという間に有名人になってしまうんだ。
　そして、これからずっと、後ろ指をさされながら生きていかなければならない。
　今なら大声で泣けそうだ。
　もうだめだ。
　もう……。

　その時、
「おっはよーさん」
　反対側のドアから達雄が入ってくる。
「お？　なんだよ、みんな？　静かになってて」
　異様な雰囲気に疑問を持ったらしい彼は、集団の一人に「どした？」と話しかけた。
　その女生徒は彼に小声で言う。
「白川くんがね……」
「あ？　輝之がどうしたんだ？」
　そう聞くと、彼女は問題の携帯を指さした。
「ん？　見せてみ？」
　携帯を持っている生徒からそれを受け取り、キーを操作する。
「白川くんの携帯に入ってたのを、麻衣が抜き出したんだってさ」誰かが補足説明した。
　輝之のいちばん恥ずかしいところを、達雄も見ているのだ。もう彼との関係もおしまいか、と輝之が覚悟したそのとき、

「おいおい、お前ら本気にしてんのか？」
　達雄は快活な声で皆に向かって言った。
「よーく見てみな。首から下と上とで、光線の当たり方が微妙に違うだろ？」
　彼が携帯を元の女生徒に返すと、周囲の生徒たちは改めてその画面を見る。
「あ、そういえば……」
「うん。言われてみれば、なんか違和感あるよね？」
　ハッタリだ。正真正銘の生写真だというのに、光線の当たり方も何もあったものか。
　しかし、そのハッタリにみんな動かされている。
「わかったろ？　そいつはトリック写真。いわゆるアイコラってやつさ」
「でも、それがどうして白川くんの携帯に？」
「ああ、俺が作ったからさ」
　彼は得意げに腕組みしてみせる。
「ゲームであいつが負けたから、罰ゲームとしてそれ作って、送りつけてやったんだ。どうだ、結構上手いだろ？」
　そして、彼は輝之の方に向き直り、
「な？　そうだよな？」
　と同意を求めてきた。
「そ、そう。そうなんだよ」
　輝之が慌てつつもフォローを入れると、教室のそこかしこから「なーんだ」という声があがった。
「タッ、達雄！　今度オレにも作ってくれよ！」
　男子生徒の一人が達雄に言う。
「いいけど、エロいのは無理だぜ？」
「えー」
「中学生がエロ画像見たら（自主規制）にぶん殴られて、さしみにされるからな」
「ちぇっ」
　すると、達雄と仲の悪い長沢有佳が、自らの眼鏡を持ち上げつつ不快そうに言う。
「アイコラだなんて……、品がない。私なら、もっと格調高いコラージュを作って見せますよ？」
「お？　言ったな？　じゃあ作ってみ？　お前のドロドロした妄想と欲望とを叩き付けて、俺に見せてくれよ」
「妄想などではありません！　私のは真なる芸術です！」
　ともかく、達雄の機転のおかげでなんとか問題がうやむやになり、生徒たちはそれぞれの場所に戻ってゆく。
「なによ。そうならそうと、早く言ってよ」
　後ろから麻衣が安堵した表情で言うと、輝之は無理に照れ笑いを作って応対する。
「は、ははは。そうだね。ごめん」
「でもね、かわいかったね」
　千尋が無邪気な笑顔で言う。
「そうよね。あんな女の子がいたら、男の子にきっとモテるわよね」
「あはは、ありがと。でも、勝手に転送するのは勘弁してね」
「ごめんなさーい」
「うん、もういいよ。あはは」
　照れ笑いを続ける中、彼は心の中で何度も達雄に礼を言った。
（本当にありがとう。達雄……）

　しかし、

「あ……」
　紀がいきさつを眺めていたのに気づいたのは、その時だった。
「黒崎さん……」
　名を呼んでも彼女は反応せず、放心しきった表情で震えるばかりだった。
「いや……」
　そう小声でつぶやいた次の瞬間、
「いやーっ！」
「黒崎さん！」
　彼女は身をひるがえして、鞄とセカンドバッグを持ったまま廊下を走り抜けていった。
「待って！」
　輝之は紀を追った。途中で朧月詠子とすれ違ったが、彼女には構わずに廊下を走り、階段を降りて昇降口から外に出る。
　しかし、彼は短距離走もマラソンもクラスで最下位レベルだ。距離は少しずつ離れ、だんだん息が切れてきた。
　登校してくる生徒たちをかいくぐって校門を出ると、彼女はそのまま近くのバス停に向かって駆けていった。
　輝之にとってはタイミング悪く、車道の向こうから「高根モール方面」行きのバスがやってくる。その時点で、すでに二人の距離は二十メートル近く離れていた。
　運動能力のなさが恨めしい。
　バスはバス停の前で停まり、紀はそれに乗り込んでしまう。
　そして輝之を待つことなく、無情にもバスは走り出してしまった。
（大丈夫だ……、大丈夫だ。彼女はあの公園に行く筈だ。そこに行けば……）
　ハァハァと息を整えながら、なんとか無理にでも自分を安心させようとする。
　だが、その努力は見事なまでに無駄となった。

「そんな……」
　一本遅れのバスで高根公園にたどり着いたものの、紀の姿はなかった。
「モールの中かな……？」
　わずかな期待を込めて高根モールへと向かう。
　しかし、隅々まで探しても彼女は見つからなかった。
　まだ人の少ない時間であるし、店もほとんど閉まっているから、いたらすぐに見つかる筈なのに。
「なんでだよ……」
　とぼとぼと公園に戻って、一昨日、彼女が座っていたベンチに腰掛けた。
　携帯から電話をかけても出る気配はない。
「出てよ。出てよぉ……、出てよぉっ……」
　何度かけても、何度かけてもだ。
　二十回ほどかけ直したところで、彼はあきらめた。
「違うのに……」
　そのまま彼は、じっとうつむいた。
　程なくして、建設機械の音が鳴り始めた。
「脅迫材料がムダになったって……、まだ、僕のこと……」
　肩が震えているのが、自分でもわかった。
　ひとつ、ふたつと、ズボンの上に雫が落ちた。
「僕のこと脅迫して、いろんな事させて、そして、笑うこと……、できるのに」
　やっと自分の気持ちがわかった。
　彼女に脅され、虐げられていたあの日々。それは、ただ辛いだけだと思っていた。
　だが、違ったのだ。
　自分をいじめていた時の紀は、とても嬉しそうで、楽しそうだった。
　そして、そんな彼女を見て、自分もまた嬉しいと思っていた。
　彼女の喜びになれる自分が誇らしかった。
　だから一昨日、彼女を引き留めにここまで来たのであり、今もまた……。
　しかし、もう遅い。一時間待っても二時間待っても、彼女は来なかった。

　緑豊かで美しい公園。
　緑の向こうに見える高層ビルたちが、その美しさをさらに彩っている。
　日の光に映えるこの公園は、孤独な紀にとって唯一の癒しの場だったのだ。
　しかし、彼は去り際、工事現場に目を向ける。
　鉄と鉄がきしみあう音とともに、徐々に壊されていく園。
　そう遠くない未来、この公園は確実に消える。
　その姿を、彼女はどんな気持ちで眺めていたのだろうか？

「一体どういうつもり？」
　昼休みに入ると輝之は、生活指導教員でもある数学教師・三橋優菜(みつはしゆうな)に、職員室へと呼び出された。
「一度登校しておきながら公然とエスケープするなんて……」
　セミロングの髪に眼鏡、スーツをきっちりと着こなした若く美しい教師だ。しかし、その厳格な指導で生徒たちには恐れられている。
「ごめんなさい……」
　輝之はただ神妙に平謝りするしかなかった。
「いいこと？　二年生の勉強内容は、とても重要なのよ？　受験はまだ先とはいえ、いい加減な気持ちで取り組んでいては……」
　延々と説教が続いてゆく中、太い三つ編みにリボンをつけた小柄な少女が、幼い声で割って入った。
「優菜。白川くんは真面目な子なんだから、そのぐらいでやめて」
　もとい、少女ではない。担任の媛野未玖(ひめのみく)だ。
「……媛野先生。学校で『優菜』はやめてって言ったでしょう？」
　三橋は媛野をたしなめるものの、
「いいじゃないの。友達でしょ？」
「友達とかそういう問題じゃなくて、私はね、校内でのけじめを問題にしたいわけで……」
「白川くん？　これに懲りたら、もうこんな事をしちゃだめですよ？」
「ああっ！　勝手に話をまとめないのっ！」
「わかりましたか？」
　優しく諭してくる媛野に、輝之は「はい」とうなずいた。
「はい、いい子ですね。もう戻ってもいいですよ」
「媛野先生！　まだ白川くんには言いたいことはたくさん……！」
「まあまあ。優菜には次の仕事があるでしょう？」
　媛野は輝之の左を指さした。見ると、そこには意外な人物がいた。
　いや、よく考えれば意外でもなんでもない。
「あ、朧月さん」
　詠子だった。
「いいなー、白川クン。アタシもお説教の相手はみくりんがいいな」
　半笑いで軽口を言う詠子。しかし、媛野は申し訳なさそうに舌をペロッと出した。
「ごめんなさいね。朧月さんは、優菜にちょっとお灸をすえてもらわないと」
「ちぇっ」
「朧月さん、またあなたなの？　ほら、さっさとそこに座りなさい！」
　不機嫌そうな三橋に、詠子は「はーい」と答えた。
「それじゃ、僕は戻ります。お騒がせしてすみませんでした」
　輝之は詠子をよそに職員室を出ていこうとした。
　しかし、その際、
「あ、ちょっと待った」
　詠子が彼に近づく。
　そして、そっと耳打ちした。
「近いうち、紀ちゃんからは何らかのリアクションがある。アタシが保証するから、心配すんな」
「何をしているの？　あなたたち」
　ますます苛立たしげな三橋だ。
「んじゃ。グッドラック」
　そう言って詠子は「お説教の席」に座り、輝之は今度こそ職員室をあとにした。
（……どういうことだろ？　リアクションって）
　教室に戻るまで、彼はずっと疑問に思っていた。
　紀と輝之が学校から抜け出した際、詠子もまた抜け出していたことを知ったのは、その後だった。
　そして、彼女が自転車で通学していることや、前に競輪ばりの速こぎを披露したことがある、ということも。