可憐ＳＳ
「男は、金の卵を産むニワトリのお腹を割きました。しかし、その中には卵など一個もなかったのです」
九月の日曜の昼下がり。
ここは、駅前から五分ほど歩いた場所にある公園である。
芝の上では親子連れがたわむれ、小道の上では友人同士や恋人同士が語らっている。
秋の風と夏の草木が共存するこの公園の中で、可憐は雛子と一緒に道の片隅のベンチに座り、イソップ童話を読んで聞かせていた。
「……こうして、彼は大切なニワトリを失ってしまいました。おわり」
「金の卵を産むニワトリ」の話が終わる。
「ニワトリさん、かわいそうだね」
と、淋しげに言う雛子。
「でも、この男の人もかわいそう」
「どして？」
「だって」可憐は、ゆっくりと本を閉じる。「一瞬の出来心に負けて、不幸せになってしまったんだもの……」
そうして、可憐は雛子の手元を見る。
さっきまで持っていた筈の、ハート形の板チョコが無くなっていた。
「チョコ、おいしかった？」
「うん！ おいしかった！ 可憐ちゃんはたべないの？」
そう言って雛子は、可憐の側にある紙袋を指差した。
「私はいいの。これは、大事なものだから」
「だいじなもの？」
雛子は少し考える素振りを見せた。
「そっか。ヒナが残ったケーキとっておくみたいに、可憐ちゃんもそれとっておくんだね」
可憐は無言でコクリと頷いた。
その時、雛子は「あっ！」と、とある方向を向いて声を上げた。
「鈴凛ちゃんだあ！」
可憐がその方を見ると、百貨店の紙袋を持った鈴凛が、こちらに向かって歩いていた。
鈴凛は二人の前で止まり、「よっ」と挨拶した。
「こんにちは」と可憐が返すと、雛子は立ち上がって、鈴凛に聞いた。
「ねーねー、買ってきてくれた？」
「うん。買ってきたよ」
それを聞いて、可憐は鈴凛に「何を買ってきたの？」と尋ねた。
「えっ？」
鈴凛の顔が一瞬固まった。そして、彼女は焦り気味に答えた。
「あ、ああ。雛子ちゃんのね、欲しがってたおもちゃ」
「えー？ ヒナが欲しがってるんじゃなくて……」
鈴凛は雛子の台詞を「ところでさあ！」と遮った。
「そういや、最近アニキに会ってないね」
「うん……」可憐は、淋しげにうつむいた。
可憐たちの兄は、ここ数週間ほどの間、この街を離れている。
「アニキが来てくれないと、アタシも金銭的に困るし、ね」
そう言って、鈴凛はポケットからガマ口の財布を取りだし、口を開けて逆さにした。
「ほーら、この通り、何も……」
その時、チャリンという音と共に数枚のコインが中からこぼれ落ちる。「おっと！」と、慌てて硬貨を回収する鈴凛を見て、可憐は少しだけ頬を緩ませた。
だが、すぐに可憐は、「ハァ」と嘆息した。
「お兄ちゃん……」
その日の夜。可憐の部屋にて。
ネグリジェ姿の可憐は、「金の卵を産むニワトリ」の本を本棚にしまい、ベッドの上に腰掛けた。
それから、彼女はゆっくりと仰向けになった。
そのまま、部屋の中を見渡す。
室内はきちんと整えられ、窓には小さな鉢植えが並んでいる。
壁には上品な風景画、本棚に並ぶのはハードカバーの少女向け小説。部屋の隅にはぬいぐるみが並び、机の上にあるポプリの袋が、部屋中に微かな芳香を漂わせている。
乙女の部屋である。
しかし、最も大切なものが、この部屋にはなかった。
「でも……」
可憐は立ち上がり、ベッドのそばにある机の引き出しを開けた。
そこには、今日買ってきた菓子の包みがあった。
「これさえあれば、一緒になれるもん……」
可憐は、それを取りだして、丁寧に包装紙をはがした。
最近、可憐はよくこの菓子を食べる。
十個セットで売られているそれは、彼女にとっては魔法の菓子であった。
可憐がそれを一個食べると、胸の中が熱くなり、視界はフィルターをかけたようにおぼろになってきた。
再びベッドに仰向けになる。あとは、こうやって「王子様」が来るのを待っていればいい。
彼女の心臓が高鳴る。それは、菓子そのものの作用のみによるものではなかった。
「……あっ」
やがて、待ち望んでいた人の顔が目の前に浮かんでくる。
しかし、その顔は程なくしてフェードアウトしてしまった。
「足りないのかな……」
可憐は机の上に手を伸ばし、菓子をもう一個口に含んだ。
熱気と冷気が同時に可憐を包んだ。彼女の息が荒くなる。
すると、
「ああ……、来た」
今度こそ、その人は可憐の前に姿をあらわした。
「元気だったかい？ 可憐」
可憐の表情が晴れる。彼女は、歓喜の声を上げた。
「お兄ちゃん……」
それから、二人は仲睦まじいひとときをすごした。
買ったばかりの画集を楽しげに眺めた。
そこに描かれているのは、遠い異国の風景と、その中で語らう男女たちの姿であった。
ページをめくるたびに、可憐はそこにいる男女と自分たちの姿をなぞらえ、心をきらめかせた。
だが、最後のページをめくった時、可憐は「きゃっ！」と言って顔を背ける。
兄は、そのページの絵を見て、可憐の反応に納得した。
そして、そんな可憐のうぶな心に微笑した。
部屋の中には、いつの間にかグランドピアノが置いてあった。
曲を奏でる可憐。しずかに聴く兄。
曲目は、ショパンの「子犬のワルツ」。コミカルな中にも上品さを含んだアップテンポのワルツだが、タイトルの子犬とはショパンの恋人の飼い犬で、この曲は彼がその恋人に捧げたものである。
次いで演奏したのは、激しいジャズだ。
熱情的な曲調は可憐の得意とするところではなかったが、その上昇気流のようなメロディにより、可憐はどこまでもどこまでも高められていった。
机の上には紅茶のカップが二つ置いてあった。
二人は紅茶を飲みながら、木製のダイヤモンドゲームに興じる。
お茶うけは件の菓子だ。食べるたびに、可憐の体が熱くほてってくる。
普段はこの菓子を一個食べるだけなのだが、今回はすでにひと箱を完食していた。
視界がグルグルと回り、思考が鈍くなってゆく。もはや、ゲームどころではなかった。
「お……」
可憐は、兄の顔を見た。視界がどれだけ歪もうと、彼の姿だけは常にハッキリとしていた。
「お兄ちゃん！」
可憐は身を乗り出し、兄の肩に抱きつく。
ダイヤモンドゲームの駒が辺りに散乱した。
「どうしたんだい、可憐？」
兄の体温、兄の吐息、そして声。全てが暖かかった。
「可憐……、お兄ちゃんのこと、好き……」
可憐は兄に体を密着させた。
「だから……、お兄ちゃん……」
そして、彼女は、半ば強引に、兄の顔に自分の顔を近づけた。
だが、兄は可憐を振り払うかのようにして、無言で立ち上がった。
「お兄ちゃん！？」
そして、彼は何も言わずに部屋を出ていった。
「どこに行くの、お兄ちゃん！」
慌てて部屋を飛び出したが、もう兄の姿はなかった。
彼女は階段を駆け下り、玄関から家の外に飛び出した。
そして、兄の名を呼びながら、夜の住宅地の中を駆けてゆく。
「ごめんなさい！ 可憐が悪かったよお！」
どの家にも明かりがついていなかった。誰も路上を歩いてはいなかった。
ただ、一定間隔で並ぶ街灯だけが、可憐の行く先を照らしていた。
可憐は、考えられる全ての場所を回った。学校、行きつけの店、川原……。
だが、どこにも兄の姿はなかった。
やがて、可憐は憔悴しきった表情で、公園にたどりついた。
「お兄ちゃん……」
公園の中にも、兄はおろか、人一人として存在しなかった。
彼女はベンチに腰掛け、夜空を見上げた。
空からは、いつの間にか星も月も消えていた。
周りを見ると、草も木も全て枯れていた。
全ての物体から色が消え失せ、白と黒の世界になっていた。
「可憐が……悪い子だからいけなかったんだね」
彼女はうつむいた。
目から雫が落ちた。
「可憐が悪い子だから……、お兄ちゃん、可憐を置いて行っちゃったんだね！」
雫は、やがて一つの流れになった。いかなる方法でも止めようが無いほどに、涙がどこまでもあふれ出た。
地面が濡れてゆく。
程なくして、足下に水たまりができる。
水たまりは彼女の足をひたし、やがて池になった。
池はやがて湖となった。街のことごとくが、湖の中に水没する。
そして数時間後、世界の全てが水の中に沈んだ。
海は荒れ続け、凪ぐことを知らなかった。
その大海の上に、一隻の箱船が浮かんでいる。
中にいるのは、可憐一人だけだ。
彼女は自失した表情で、ずっと荒れた大海原を眺めていた。
もう、長い間陸地を見ていない。見たいとも思わなかった。
もはや、彼女には何も無い。兄を失った時点で可憐には何も残らず、そして、何かを得る必要もなかった。
その時、空から小鳥の鳴き声が聞こえた。
「！」
可憐は立ち上がり、窓に駆け寄る。
すると、一羽の白い小鳥が窓の縁に着地してきた。
鳥は、オリーブの葉を口にくわえていた。
遠くから小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「あ……、ん」
気がつくと、可憐はベッドの上で仰向けになっていた。
「私……、何を？」
そのまま、部屋の中を見渡す。
室内はきちんと整えられ、窓には小さな鉢植えが並んでいる。
壁には上品な風景画、本棚に並ぶのはハードカバーの少女向け小説。部屋の隅にはぬいぐるみが並び、机の上にあるポプリの袋が、部屋中に微かな芳香を漂わせている。
紛れもない、自分の部屋であった。
ただ、その部屋には、普段と違うところがあった。
「おはよう、可憐」
彼女の目の前には、「王子様」が立っていたのだ。
「お……」可憐は、目を丸くて飛び起きた。「お兄ちゃん！」
兄が何か言おうとするや否や、可憐はベッドから降りて兄に抱きついた。
「お兄ちゃん、おかえり……」
「可憐は寂しがりやだな」兄は、彼女の髪をなでた。「僕は、可憐から離れたりはしないさ」
「うん……、ありがとう、お兄ちゃん……」
可憐が兄から離れると、兄は綺麗にラッピングされた小箱を差し出した。
「それより、可憐。おめでとう」
「えっ？」
事態が読み込めない可憐に、兄は言う。
「今日が何の日か、わかるかい？」
彼女は、壁のカレンダーを見た。
今日は、九月二十三日の秋分の日。
可憐の十四回目の誕生日だった。
「可憐ちゃん！ おめでと！」「おめでとー」
部屋に鈴凛と雛子が入ってきた。
雛子も包みを持っていた。鈴凛も、昨日公園で持っていた紙袋の中から、プレゼントの包みを取りだした。
「ありがとう……二人とも」
可憐の頬が緩んだ。
「ほかのみんなも、庭で待ってるよ」
鈴凛はプレゼントを差し出しながら言った。
「みんなって……？」
「今日は、可憐ちゃんの誕生パーティをやるの」
「えっ……？」可憐は驚いた。
「ずっと可憐ちゃんには内緒にして、準備してたんだよ。今日アニキが帰ってくることも、みんな知ってたの」
鈴凛は照れくさそうに頭をかく。
「昨日は、あやうくバレそうになったけどね」
庭に出ると、すでに他の九人も揃っていた。
花穂、衛、咲耶、白雪、四葉、春歌、亞里亞、千影。療養所の鞠絵の姿まであった。
彼女たちは、声を揃えて言った。
「誕生日おめでとう！」
「みんな……」
可憐は、満面の笑顔と共に、こう言った。
「本当にありがとう……。可憐、みんなのこと大好き」
その日、可憐は兄と十一人の姉妹と共に、楽しい一日を過ごした。
「でもさあ……」
庭の片隅で、鈴凛と兄は、可憐の方を見ながら語り合っていた。
「アニキ大変だったでしょ？ 可憐ちゃんを、夜の公園からここまで連れてくるの」
「ああ。母さんたちに気付かれなかったのが幸いだったよ。……まあ、この事は可憐には黙っておこう」
「うん。でも、なんで可憐ちゃん、あんな場所にいたんだろ？」
可憐の机の上には、菓子の空き箱が置いてあった。
その中に入っていた筈の十個のウイスキー・ボンボンは、全て無くなっていた。
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