花穂ＳＳ
とある秋の夜の話。
「さて、次は神奈川県の、ペンネーム・エコノスの皇女さんのおハガキ」
花穂は寝付けなかった。
ぼんやりと自室の机に向かい、机の向こうの窓から外を眺めている。
眠れない理由は単純だ。
「明日試合が控えていて緊張している」とか「宿題が溜まっていて眠ることが許されない」とか、まして「地球の破滅を予知してしまい、もはや眠るどころではない」などといった複雑な事情はない。
すでに両親も眠っている。ドアの外からは何も聞こえない。
「『烏賊川さんこんばんわ』、こんばんわー。『私は川崎に住む中学二年の女の子です。烏賊川さんに質問です。私は最近、好きな男の子が出来ました』、おお〜。『ところが、いざ彼に告白しようとしても……』」
（そういえば、衛ちゃんも中学二年なんだっけ……）
ラジオから流れるトークを聞きながら、花穂は時折、机の上に飾ってある写真を見る。
今日の帰りにプリントしてきたばかりの写真である。
花穂は端の方にいるが、あまり写りの良くないのが残念だった。
そんな折り、窓ガラスに「コツン」と、小石が当たったような音がした。
「何だろ？」
花穂は窓を開け、そこに面した道路を見下ろす。
路上には、自転車から降りた状態の衛が立っていて、こちらを見上げていた。
手を振る衛に、花穂も笑顔で手を振り返した。
「こんな時間に明かりがついてたから、どうしたんだろうって思って」
衛は、パジャマから着替えて外に出てきた花穂に言った。
もう夜中の十一時で、明かりのついている家は少ない。
「衛ちゃん、どうしてこんな所にいるの？」
花穂が聞くと、衛はチラリと愛車に目を向けつつ、答えた。
「ちょっと、サイクリング」
「こんな夜中に？」
「うん。ボク、近くの公園までよく行くんだ」
そして、衛は花穂に尋ねる。
「花穂ちゃんも、一緒に行く？」
「うーん……、どうしようかな」花穂は少しためらった。
花穂は小学五年生だ。こんな夜中に外出することなど未知の経験であり、決断するのには勇気の要ることである。
しばし考えた末、答える。
「うん、行くよ」
自転車を押していく衛についてゆく花穂。
昼よりも涼しくなった風が花穂の頬をくすぐり、髪をなびかせる。
夜の住宅地は、昼間とは全く違う姿を見せる。
昼に見えたものがまるで見えなくなり、その代わり、昼には見えなかったものがハッキリと見えてくる。
「衛ちゃんは」花穂は聞いた。「こんな夜でも眠くならないの？」
「眠くなるときもあるし、眠くならないときもあるよ」
「そうなんだ……。花穂、いつも眠くなっちゃうんだあ」
花穂と衛の年齢差はほんの三歳である。
しかし、花穂には、夜更かしのできる衛がやけに大人っぽく感じられた。
「でも、今日は眠くならなかったんだ？」
「花穂ね、冷蔵庫にあった缶コーヒー飲んじゃったんだ……」
「あの、お父さんが毎朝出がけに飲んでる？」
花穂は「うん」と答えた。
「あれって、砂糖とかミルクとか全然入ってないやつでしょ？」
「うん。とっても苦かったけど、全部飲んだんだよ」
花穂は、微糖コーヒーの酸味と苦味を思い出しながら、少々誇らしげな表情でそう言った。
「へえ……。でも、なんで飲んだの？ そんなの」
「だって」花穂は、衛の方に向き直り、悪戯っぽく笑う。「大人っぽいでしょ？」
そんな花穂を見て、衛は何も言わずに微笑した。
やがて、二人は高台にある児童公園に辿り着いた。
ここからなら、数キロ離れた駅周辺の繁華街を一望することができる。
「わあ、きれい……」花穂は感嘆の声を上げた。
住宅地は静まりかえっても、街はまだ動いている。
色とりどりのネオンサイン。
明かりのともった窓と、そうでない窓とが、チェック模様を構成しているビルの壁。
高層ビルの天辺には赤いランプが光り、夜空はぼんやりと白んでいる。
「ボク……、こうやって、夜景を見るのが好きなんだ」
衛は街並みを眺めつつ、花穂に言う。
「こうしてると、あそこでいろんな人が、いろんな事を思いながら、いろんな時間を過ごしてるんだな……って思えてきて、なんか、ウキウキしてくるって言うか、楽しくなってくるって言うか……、そんな感じがするんだ」
そう言われて、花穂も街の様子に思いを馳せる。
夜の街の姿など、テレビでしか見たことがない。しかし、その未知の世界が、自分の手の届きそうな場所にある。
花穂は聞いてみた。
「衛ちゃんは、夜の街に行ったこと、あるの？」
衛は花穂の方に向き直って、「うん」と答える。
そうして衛は、数週間前の金曜日に、クラスメートと一緒にカラオケボックスに行った時のことを語った。
「それで、帰りにハンバーガーショップに寄って帰ったんだ」
「えっと……、なんか、恐い人とかいなかった？」
「人がいっぱいいるから、そんなに恐い目になんか遭わないよ。それに、男子も一緒だったしね」
花穂は「男子が一緒にいれば恐くないの？」と聞こうとしたが、やめた。
そうだよね。衛ちゃんと同い年ぐらいの男の子は、みんなおっきくて、頼りになるし、それに、
「衛ちゃんも男の子みたいなもんだし……」
「え？ なんか言った？」
その時、後ろから押し殺したような、それでいて高い声が聞こえてきた。
「？」「？」
二人は同時に振り向いたが、誰も見あたらない。
気のせいだと思って前に向き直ろうとすると、今度は茂みがガサガサと動き始めた。
「な、なんだろ……？」と花穂。
「ちょっと、見てみようか……」と衛。
足音をたてずにゆっくりと近づいて、おそるおそる中を覗き込んでみた。
「！」「！」
そこには、白並木学園高等部の制服を着た男女二人がいた。
年頃の男女が、夜中の公園の茂みに隠れて、一体何をしているのか……、説明の必要はないだろう。
とはいえ、その行為が何なのか、花穂には見当もつかなかった。
彼女は、時折声を上げたりして完全に自分たちの世界に入っている二人をよそに、静かに衛の方を向いた。
衛は顔を真っ赤にしたまま硬直している。
（……？）
一体どうしたのか疑問に思っていると、衛は顔を覆いながらそこから離れていった。
花穂もそれについていくと、衛は小声で花穂に「邪魔みたいだから、公園から出ようか」と言った。
「え……？ どういうこと？」
「後で話すよ……」
「そういえば、小学校じゃそういうこと、習わないよね？」
花穂の家までの道を歩きながら、衛は花穂に言った。
「うん……。中学校で習うの？」
「そう。男子と女子と、別々の部屋に分かれてね」
「それで……、あの人たちは、一体何してたの？」
衛の顔が再び赤くなる。衛はしばらく黙ったのち、「ほんとは、花穂ちゃんにまだ早いかもしれないけど」と前置きした上で、あの二人の行為について語り始めた。
説明を聞いて、花穂も顔を真っ赤にして絶句した。
「そ、そんな事を……？」
「と、友達とか、お父さんお母さんとかに、言っちゃダメだよ。ほんとは、もっと大きくなってから知るような事なんだから……！」
焦るような口調で言う衛の顔を、花穂は見つめた。
大人になったら、そういう事もするんだ……。
「衛ちゃんは、したことあるの？」
「ぶはっ！」
衛は噴き出した後、物凄い勢いで花穂の方を向いた。
「あ、あるわけないじゃん！」
「でも」花穂は立ち止まる。「衛ちゃんって、花穂より全然大人っぽいし……」
「え？ ボクが、大人っぽい？」
「うん。衛ちゃん、夜だって起きていられるし、花穂の知らないこと、いっぱい知ってるし……。花穂、『した』方がいいのかなあ？ そうしたら、もっと大人っぽくなれるのかなあ？」
真面目な顔で言う花穂。そんな花穂を見て、衛は「ぷっ」と吹き出してしまう。
「お、おかしいかなあ？」
「花穂ちゃん」衛はスタンドを降ろして自転車を立て、優しい表情で花穂の顔をじっと見つめた。「ボクはちっとも大人じゃないよ」
「そうかなあ……？」
「そうそう。ボクたちが大人になるのは、まだ、ずっとずっと先の話なんだよ」
そう言われて花穂は、衛の顔を黙って見る。衛は続けた。
「そして、急いでも急がなくても、いつかは必ず大人になっちゃう」
「必ず……かぁ」
「大人になったら、もう子供には戻れないんだよ」
花穂はその言葉を聞いて、自分の机の上に飾ってある写真を思い浮かべた。
先日、可憐の誕生パーティーを行った。その際に撮った、兄と十二人の妹の記念写真である。
それから、その十二人が、一回りも二回りも大きくなった光景を思い浮かべる。
雛子も亞里亞も、現在の咲耶よりも大きくなり、咲耶はすでに子供を連れている。
花穂は――、衛は――、そして兄は――。
確かに、それはそれで楽しいかもしれない。
しかし、今の十二人と兄の姿は、もうそこにはない。
「そっか」
花穂はしばらく黙ったのち、顔をほころばせた。
「花穂は……、まだ子供でいいんだね？」
「うん、そうだよ」
衛の顔もほころぶ。
さっきまで大人っぽく見えた衛が、この瞬間は子供っぽく見えた。
「さ、行こうか、花穂ちゃん」
「うん！」
そして、衛はスタンドを蹴り上げ、花穂と共に歩き続けた。
二人は花穂の家の前で別れた。
大人っぽく見え、それから、子供っぽく見えた衛。
しかし、自転車に乗って去ってゆく衛の後ろ姿は、今までで一番大人っぽく見えた。
花穂は、少し湿っぽい夜の風を受けながら、その後ろ姿に向かって手を振り続けた。
しばらくして、両親に気付かれないよう、部屋に戻る。
「……そういうわけで、『淋しいコンパス』君、わかったかな？」
ラジオの電源が入ったままだった。ＤＪはずっと喋り続けていた。
「君の大事な話なんだから、君自身で決めようね。誰も君のことは責めないから、自信をもって……」
花穂はラジオの電源を切り、パジャマに着替えた。
カフェインの効果もほどよく失われてきた、今なら眠れそうだ。
「おやすみ、みんな……」
そして、花穂はベッドに入りながら、机の上の写真に就寝の挨拶をした。
後日談。
花穂はある日、学校で、衛から「友達に言っちゃ駄目」と釘を刺されていた「あのこと」を、特に親しい友人に、こっそりと語ってしまった。
だが、その友人の反応は……、
「あれ？ 知らなかったの」
「えっ？」
「なんだ、みんな知ってるかと思ってたのに」
そして、話は思わぬ方向へと進む。
「ここだけの話ね、○○ちゃんはもう経験済みなんだってさ」「……」「相手は××君だって言われてるけど、本当かどうか真相は闇の中」「……」「あ、そういえば……と……もそうだったんだっけ。あと……」「……」
この後には、友人が買ってきてくれた缶入りブラックコーヒーを、一口だけ飲んでギブアップしてしまうというエピソードが続く。
こうして花穂は、自分が子供っぽいことを再び悩むようになるのだが、それはまた別の話、である。
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