Queen's Reclamation
3:『復権』
翌朝は、昨日までの快晴が嘘のように、一面の曇り空だった。
だが丁度よい。連日の猛暑から解放されるのは良いことだ。
それに彼は、もうすぐ別なものからも解放されるのだ。ピンの刺さった胸は、なぜかずっと痛んでいるけれど。
(よし……、言うぞ……)
騒がしい始業前の教室のなか、彼は自分の席でひとり、去る放課後のことを思い起こしている。
だが、もう過去の話だ。これでもうあの性悪な女との縁は切れる。
具合の良いことに、教室に紀の姿はない。彼女が何をしてきたのか、言うなら今しかない。
(言ってやるっ!)
彼は勢いよく椅子から立ち上がった。
決意は揺るがない。
胸ががさらに痛みを強めた。
だが、それに耐えつつ、彼は声を張り上げようとした。
「みんな!」
「白川くん、来てたんだ」
そう言って近づいてきたのは、女生徒が二人。
佐藤千尋と田中麻衣。背が低くてツインテールに大きなリボンをつけているのが千尋で、背が高くてショートカットなのが麻衣だ。
「ちーちゃんに、田中さん……。おはよう」
内気だが思いやりのある千尋と、開放的な性格の麻衣。二人は輝之にとっても達雄にとっても、仲の良い友達である。
「おはようなの」「おはよ」
二人は挨拶したあと、さっそく彼に聞いてきた。
「あのね、白川くんって、黒崎さんと仲いいの?」と千尋。
冗談じゃない。どうしてあんな奴と……。
「いや、そういうわけじゃないよ」
「でも、最近よく一緒にいるよね?」と麻衣。
「気のせいだよ……」
からかわれているのか、と思った。
しかし二人の表情は真面目だ。
「えっとね、昨日、図書室に黒崎さんがいたの」千尋。
「でも泣いてたから、どうしたのかなー、って思って」麻衣。
「泣いてた……?」
いつも高慢な笑みを携えて、自分をいじめて楽しんでいたあの女が?
泣く?
その光景を思い浮かべようとするが、無理な話だった。
「だからね、白川くんに泣かされたのかな、って思ったの」
たぶん間違ってはいない。
「そうそう。白川くんは女を泣かせる男なのかなって」
「……そういう誤解を招く表現はやめてね」
麻衣に軽くツッコミを入れる輝之。だが、おそらくこれもある意味間違ってはいない。
(今さら泣いたって許すもんか。泣きたいのは僕の方だよ……)
そう考えて胸の痛みをむりやり押し殺そうとするが、
(そうだよ……、泣いたって……)
「そろそろね、授業なの」
「あ、ほんとだ。女泣かせはほっといて、準備しよ」
「だから違うって!」
「はいはい。じゃーねー」
彼女たちは席に戻っていった。
「よっ、女泣かせ」
いつのまにか後ろにいた達雄がからかってくる。
「た、達雄! やめてよ!」
「怒るな。ジョークだよ。それよりメール読んだか? 昨日の夜送ったんだけど」
そう言われて輝之は、図書館での一件以来、携帯の電源を切ったままであることを思い出した。
「ごめん。読んでない」
「そうか。じゃあ今言うわ。例のメモ帳のことだけど、もうちょっと貸してくれるか? 母さんが結構気に入ったみたいなんだ」
「うん、いいよ」
「サンキュ。お前は神崎家の食卓の健全化に、十分貢献してくれたぜ」
そう言って、達雄は爽やかな笑顔でウィンクした。
紀はまだ来ない。
胸のピンは、まだ痛んでいる。
一時限目が終わっても、まだ彼女は来なかった。
ホームルームが終わっても、午前の授業がすべて終わっても。
昼休み、教室で弁当を広げつつ、ふと、いつもは二つ作っている弁当を、今日はひとつしか作らなかった理由を思い出した。
(そうだよ。僕はあの子を告発して、縁を切るつもりでいたんだ……)
すっかり忘れていた。あれだけ「言ってやる!」と意気込んでいたのに。
そして、忘れていたことがもうひとつ。
「あ、携帯」
そういえば、電源が切ったままであることを達雄に指摘されたのだった。
ズボンのポケットから取り出して電源を入れる。
幾何学的なスプラッシュ画面の直後、「メールが二通届いています」というメッセージが出てきた。
読んでみると、新しい方は達雄の「例のメモ、もうちょっと貸してくんない?」。
そして、古い方はというと……、
輝之の手が止まった。
ピンの刺さった心。その痛みが頂点に達したのは、この瞬間だった。
彼は弁当をそのままに、すみやかに廊下へと出た。
それから、人目のつかない場所に移動して電話をかける。
相手は一人しかいない。
呼び出し音。
しかし、数回鳴った後に聞こえてくるのは「ただいま電話に出ることができません」。
何度かけ直してもそうだった。
「何やってんだろ、僕……」
彼はあきらめ、ひとりごちる。
どうしてこんな事をしているのか、自分の気持ちがよくわからない。
しかし不思議なことに、胸の痛みは急速にひいていた。
メール――紀からの――に書かれていたメッセージは、ただ一言。
『ごめんなさい』
「……とりあえず、お弁当だ」
腹がふくれた方が良い考えも浮かぶ。
そう思って教室に戻ろうとしたところで、一人の女生徒が彼に声をかけてきた。
「よっ、白川クン」
「え? なあ……にっ!」
その姿を見て、彼は一歩後ずさってしまう。
ボサボサの髪には茶色がかかっていて、耳にはピアス。スカートの丈は短くて、ルーズに崩したブラウスにはネクタイをつけていない。
朧月詠子。
同級生でありながらほとんど面識がない、というのはこの前までの紀と同じだが、こちらの場合は意識して避けてきたと言うべきか。
人を見た目で判断してはいけないとは言うけれど、どうも彼女の場合、よからぬ人間との付き合いがありそうで怖い。
「彼女のことで悩んでんの?」
どう反応して良いかわからない輝之に、彼女は半笑いで尋ねてくる。
「彼女って、誰のこと?」
「黒崎紀ちゃん。一緒によくいるけど、彼女じゃないの?」
慌てて否定する。
「ち、違うよ!」
「あっ、そ」
つまらん、とばかりに彼女は背を向けた。
「だったら、情報は必要ないね」
「な、なに? 情報って?」
すると彼女は、また半笑い状態になって振り向いた。
「聞きたい?」
「う、うん。聞きたい」
「安くするよ?」
「……お金取るの?」
「あーぁ? タダで物教えてもらおうなんて、甘っちょろい考え持ってんじゃねーよ、コラ?」
言い方は乱暴だが、顔はあくまでも笑っている。
「ご、ごめんなさい。百円か二百円ぐらいなら出せます」
「ああ、五円でいいよ」
「は? ごえん?」
拍子抜けしてしまう。
「五円玉集めてんのよ。ほら、五円玉っていいと思わない? 十円とか五十円とか百円みたいに大活躍ってわけでもなければ、一円みたいに小回りきくわけでもないけど、あったらあったでそこそこ便利な奥ゆかしさ。そもそも五円玉っていうのは、終戦直後に……」
「よ、よくわからないけど」詠子の蘊蓄話をさえぎる。「それでいいなら……」
財布から五円玉を出して、詠子に手渡した。
「オッケー。……おっ、昭和五十六年発行のレアもんじゃん! 気前いいねえ」
レアもんとか言われても、硬貨のレアリティなど知らないわけだが。とはいえ、詠子はホクホク顔だから良いのだろう。
「よーし、じゃあ教えてやる。黒崎紀ちゃんの秘密情報を」
「は、はい」
「耳かっぽじってよーく聞きな。あ、これは知り合いからの情報提供ね」
そして、詠子の話が始まった。
詠子によると、「高根モール」の辺りは、もともとはすべて「高根公園」の敷地だった。
近年になって、その大部分を潰してショッピングモールへと造り替えたのだ。
「……そういうわけで紀ちゃんは、日がな一日高根公園にいて、ずっと一人でたそがれてたってわけ」
「それって、休みの日はいつもそうだったの?」
「ああ、休みの日もそうだけど、平日も大抵そうだったみたい」
「平日も? 学校は?」
「知らないの? あの子、ほとんど学校に来てなかったんだよ?」
そんな話は、どの友人からも聞いたことがない。無関心なのか、それともあえて話題に出さなかったのか。
それも驚きだったが、詠子はさらに驚くべきことを言った。
「ただね……。ちょうど先週の月曜から、ずっと毎日学校に来るようになった。それまでとはうってかわってね」
「先週の……、月曜?」
「そう。何があったのかは知らないけど」
忘れもしない。紀の理不尽な支配が始まった日だ。
つまり、彼女が不登校から脱出できたのは、おそらく……。
「彼女は、今もあの公園にいると思う」
詠子は、まるで彼を試すかのように聞いてきた。
「前は日が沈む頃までずっとあそこにいたから、たぶん今日もそうでしょ。……どうするよ? 色男」
真面目な口調で言いながらも、口では笑っていた。
あれほど厚かった空の雲は、放課後にはだいぶ薄くなっていた。
「第一中学校入口」停留所からバスに乗り、高根モール方面へ。
「ご乗車ありがとうございます。このバスは高根モール経由……」
十数分後にバスは「高根モール」停留所の前で止まり、輝之は買い物客とおぼしき女性たちにまじって降車する。
バス停の文字を見ると、何かの文字を白塗りした上に「高根モール」と書かれていることがわかった。おそらく、下には「高根公園」と書いてあったのだろう。
はじめて女装写真を撮られたショッピングモール。それを尻目に、彼は公園へと早足で進んでいった。
公園の中央からは高い木が一本そびえていた。その針葉樹がモミの木である事を知ったのは、だいぶ後になってからの事である。
緑豊かな美しい公園。その中に、はたして紀はいた。
制服姿の彼女はベンチに座って、ずっとモールの方を眺めている。
そこには「立ち入り禁止」のロープが張られ、その向こうでは建設機械が騒がしい音を立てていた。
モールが拡張工事中だという事は知っていたが、それもまた公園を潰しての拡張だったのだ。
「黒崎さん……」
輝之は紀の前にそっと立って、語りかけた。
彼女はこちらを向いて、しばらくの間彼の顔を眺める。
そして、言った。
「よく、ここがわかったわね」
上品な笑顔はない。
「朧月さんに教えてもらったんだ」
「朧月さん?」
「えっと、耳にピアスつけてて、髪染めてる、あの……」
「ああ、あの子ね。知ってるわ。でも、どうしてその子が……。まあ、いいわ」
紀は顔を工事現場の方に戻し、吐き捨てるような口調で続けた。
「今さら何しに来たのよ、ここに……。どうせ、みんなに言ったんでしょ?」
「黒崎さんのことは言わなかったよ」
「あっ、そう。でも、言ったんでしょ?」
「だから、言ってないって……」
「私のことじゃなくて」
再度輝之の方に向き直る。
「白川くん、あなたのことよ」
「僕のこと?」
「そう。白川くんが女装してたこと。みんなに告白したんでしょ?」
「……いや、言ってないよ」
「昨日、息巻いてたじゃないの! 私より先に言った方が好都合だから、みんなに言ってやるって! ものすごく怒ってたじゃないの!」
泣きそうな顔で詰問する彼女。そこにいつもの冷静さ冷淡さは、みじんも無い。
「あれは、ついカッとなって……、口走っただけだよ」
「本当に?」
「本当だよ」
「本当なの?」
「本当」
「ほんとに、ほんと? ほんと?」
「ほんとうに、ほんとうに、ほんとうだよ」
「……そう」
彼女はしばらく沈黙した。
その顔から、徐々に険がとれていった。
そして、
「それなら……、よかった」
と、安堵の表情を浮かべた。
輝之は確信した。
そうだ。
紀の脅迫は、脅迫になっていないのだ。
輝之の秘密を暴露した瞬間、二人の繋がりは終わる。だから彼女には、暴露することなどできないのだ。
なぜならば……、
輝之は笑顔で紀に言う。
「謝ってくれて、嬉しかったよ」
「……読んだの? メール」
彼はうなずいた。
「『ごめんなさい』って言ってくれたから、僕も謝るよ」
そう言って、軽く頭を下げる。
「ごめんね」
「……バカね。悪いのは私なのに、どうしてあなたが謝るのよ」
「だって、僕のせいで、黒崎さんはずっと悩んで……」
「誰が悩んでるのよ?」
紀は立ち上がって、彼の頭を右手で戻す。
「悩んでなんかいないわ。奴隷が生意気言うんじゃないわよ」
そう強がっても、彼女の頬は赤くなっている。
「ごめんなさい……」
また輝之は謝る。
その彼を見て、紀はためらうように聞いた。
「……それでいいのかしら?」
「え?」
「いま私、『奴隷』って言ったけど……、これからも、あなたは私の言うことを聞き続ける。それでいいの?」
紀の問いに、輝之は即座に答えた。
「もちろんだよ。僕のこと、いっぱいいじめていいよ」
その言葉に迷いはない。
そのまま屈託のない笑顔とともに頭を下げる。
「よろしくお願いします、女王さま」
それを見て、紀はクスリと笑った。
「あなたの忠誠……、感謝するわ」
彼女に上品な笑顔が戻った。
しかし、前のような冷たさはなく、優しい笑顔だった。
「まあ、もっとも……」
彼女はポケットに携帯を取り出して電源を入れ、例の女装写真を見せてくる。
「選択の余地はないけれどもね」
あまりに得意げなその様。苦笑しそうなほどに痛々しかった。
そんな脅迫が、まだ効果を持っているとでも思っているのだろうか? もはや、いじらしさすら覚えてしまう。
だが、彼はその「脅迫」を受け入れた。
彼女は自分を必要としている。
それに自分は応えなければいけない。
だから、彼女に従うことにした。
使命感がひとつ。それだけ。
「また明日、学校でね。バイバイ」
「さよなら」
紀と別れ、彼はバスに乗って帰宅する。
しかし、彼の胸の中にはずっと疑問符が充満していた。
使命感。
本当にそれだけなのだろうか?
やっぱり、自分の気持ちがよくわからない。
しかし、空の雲がちりぢりになり、隙間から明るい日の光がこぼれているのは確かだった。